歴史から学ぶ[プライベートブランド]の作り方

英雄・偉人のブランディング秘策

例えば、坂本龍馬のような事業家になれる方法?!


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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> ⑥人間と道具と
                   [1:理論編]

 前項で示したとおり、火は人間に「時間」を与えた。つまり、狩猟時間の延長、生活時間の延長、寿命の延長と言い換えることができるだろう。それは同時に「空間」という特権を得たことにもなる。時間的制約からの解放は、空間的制約からの解放をともなうからである。そして、人間がさらに広大な空間を領有することができるようになったのは、「道具」のおかげである。

 火の力によって、人間は強靱な生存力を手に入れたが、なかでも、火の加工力に気づいた人間はより大きな力を得ることができたはずである。武器、食器などに施した加工によって、他の集団よりも遠くへ移動でき、たくさんの食糧を確保できるわけである。

 食糧確保能力の強弱が組織形成のスピードと組織の結束力の強弱に直接的な関連があることは、現代人でも実体験として理解できることである。分け与える能力の強いリーダーには大きな組織が従属する。原始時代の男たちとまったく同様の体験を、我々現代ビジネスマンは日常経験していると言えよう。

tower_of_babel  さて、道具の発明と運用が、人間社会を形成していくのに重要なファクターであったことは明白である。火と道具を得たことで、人間の生活単位は、個もしくは小規模な家族から、複数の家族でなる組織的集団へと変化していったと考えられる。もちろん、「言葉」がそれに拍車をかけたことは、「旧約聖書・創世記」のバベルの塔のエピソードを紐解くまでもないだろう。

 誤解を恐れず端的に言えば、火は人間に時間をもたらし、道具は人間に空間をもたらしたと理解できる。空間とは、居住地域を意味し、また人間の共同社会のことをも指す。

 ところで、空間的拡張を手に入れた人間がそこからさらに手に入れたものがある。

 それは、である。もちろん、もともと人間には手と目があるのだが、管理すべき空間が広くなったことで、手と目の機能が飛躍的に向上したと考えられる。

 空間的自由を得たということは即ち、外敵から襲われるリスクが増えたということでもある。外敵への警戒心は、遠くまで見晴るかすことができる視野の拡張と視力の向上をもたらしたであろう。さらに、自分と自分が守るべき家族・組織からより遠い地点で、敵を仕留める必要性があるために、道具や火を運用する手の機能が向上したと考えられる。器用になったのだ。それまで、食糧の皮をむいたり、棒きれを握ったりする程度の使い方しかできなかった手に、様々な機能が付加されたはずである。道具の発明は、使用法の発明でもある。手の使い方、指の動かし方、腕の使い方の新規発見が行われたと考えられる。

 そのことを証明する図がある。

omunculus カナダの脳外科医ペンフィールドは、ヒトの大脳新皮質における「運動野・体性感覚野と体部位との対応関係」を図示した。例えば、舌で味わい「美味しい」と感じるのは、大脳でそう感じているのである。舌先が感じているのではない。舌先はあくまで情報収集の出先機関(器官)に過ぎない。つまり、大脳に舌の味覚に相当する部位があるのである。人間の五感のすべてが大脳のどこかに対応しているのである。それが左図「ホムンクルス」である。

 この図を見れば分かるように、人間の五感のうち大脳に占める割合が多いのが、口と手である。これは、食糧を確保することがいかに大切かを物語っている。食糧を確保するために、火と道具を使う「手」と、確保した食糧を体内に運ぶための「口」である。この二つの感覚が大きいおかげで、人間は食糧を確保することができるのである。

 さて、ホムンクルスでは、顔のなかで口がもっとも大きく描かれているが、目と耳も、他の体の部位に比較すると大きめに描かれている。

 前項で、人間は時間を聴覚野で感じると述べた。時間感覚と耳は密接な関係があるのだ。集中している時、どんな騒音があっても耳に入らない。そんなとき、たいていの場合、時間感覚が麻痺している。気がつけば数時間経っていたなどということがよくある。私の場合、この原稿を執筆している時がそういう時だ。また、音楽を聴きながらジョギングをしていると、交通事故に遭う確率が増えるらしい。音楽が聴覚野を独占しているため、近づいてくる自動車などの音を察知することができないのである。

 では、空間の場合はどうか。

 ご想像通り。人間は、空間を視覚野で感じる。空間認識能力というやつだ。これは目の機能である。

 数年前、『話を聞かない男、地図が読めない女―男脳・女脳が「謎」を解く』がベストセラーになったが、この本では、空間認識能力の男女差が脳科学的に述べられている。

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 狩猟を仕事としてきた男は、外敵から我が身と仲間を守るために、目の能力が女性に比して優れているらしい。しかも、目では見えない背後や物陰すらも察知しようとする空間認識能力や直感力が優れている。だから、自動車の車庫入れは男の方が巧いというのである。一方、人間同士の関係性を瞬時に察知する能力は女性が優れており、それは家庭と子どもを守る義務を負った女性ならではの能力であると述べている。

 以上のことから脳科学的に限定して言えば、女性が政治外交を行い、男性が戦争と生産活動を行う、古代日本の邪馬台国のような国造りが理想なのではないかと思うが、それは本論と直接関係ないので、あくまで余談に留めておこう。

 さて、以上のように、火と時間と耳の関係性と同様に、道具と空間と目の関係性について述べてみた。

 次項は、言葉について述べたい。言葉と密接な関係を持つ概念についても深く論じてみたいと思う。

 さらに、「火・時間・耳」「道具・空間・目」「言葉・?・?」。この三つのセットは、これから詳述していく英雄ブランディングのセオリーの核心部分となっていくことを、あらかじめご記憶願いたい。

 この三つの関係性を理解することが、マーケティングの基本なのである。そのことは、後々証明していくこととなる。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> 7.人間と言葉と
                   [1:理論編]

tower_of_babel_thumb 「旧約聖書」創世記十一章、「バベルの塔」のエピソードは、人間が言葉を得たことの重要性を物語っている。

 もともと人間は同じ一つの言葉を話していた。人々はれんがとアスファルトを用いて天まで届く塔をつくろうとした。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった・・・。

 また、「新約聖書」ヨハネ福音書第一章の冒頭には、「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉は神なり」とあり、「よろずのもの、これによりて成り」と続く。

 火・道具・言葉の三つは、人間とその他の動物とを区別する大きな溝である。この三つに軽重はない。どれか一つが欠けても人間の歴史は成り立たなかっただろうし、逆に、どれか一つが出現した時点で三つが揃う条件が整ったのだと思う。だから、なにゆえ、聖書が「言葉」のみを重んじるかと首をかしげたくなる。この三つが人間を人間たらしめていると論じていても良いはずであるのに、聖書は「言葉」を冒頭に掲げ、「言葉は神である」と定義している。(私はクリスチャンではないが、言葉に関する新約聖書の記述があまりにも有名なので例示した。おそらく、他の宗教でも言葉を最も大切に扱っているのではないかと思う)

 しかし、よくよく考えてみると、やはり言葉がなければ、人間は火も道具も、今のようには上手に自分たちのものに出来なかったに違いない、という結論に至る。

 例えば、ジェスチャーゲームをしてみると、言葉の大切さが身にしみる。両手で山型を作って、両手が交差するポイントから何かが吹き出しているジェスチャーをしても、それが、「山の頂から何かワケの分からないものが吹き出している。どうやら危険そうだ。早く逃げよう!」という警告が相手に伝わるかというと、どうも心もとない。

 そういう失敗体験を何万年も繰り返し、ようやく人間は、原初の言葉(らしきもの)を発声できるようになったのだろう。動物の鳴き声の模倣から始まったのかも知れない。

 以前、知人から面白い話を聞いたことがある。「地球上のどの言語においても、警告のための言葉は人間の声帯にとって、最も発音しやすく、発音の時間が短い」というのだ。

 他人に注意を喚起する際に用いる呼びかけ語は、たいていの場合、短くて撥音をともなう。日本語では「オイ!」、英語では「Hey!」など・・・。すべての言語について調べるわけにはいかないが、おそらくこの法則は正しいだろう。より遠くまで音が伝わる周波なのだろう。この点はもちろん、人間以外の動物も同じである。

 しかし、人間と動物が大きく異なる点がある。

 それは、人間が「警告音に留まることなく、その他の多様な言葉を持ったこと」である。

 自分と数少ない仲間の生命を守るためだけならば、警告音とその他のわずかな音で事足りるのである。「食べる事」「生命の危険から身を守る事」に関する音のパターンで、充分に種を守っていけるのである。

 しかし、ヒトだけが、それ以外の多様な発声パターンを開発していき、それを種のなかで共有していった。

 火・道具によって、長期化した狩猟時間・生活時間。広域化した縄張り(居住地域)。それにより増した危険性。

 そのような厳しい環境下において、自分を守るためには、まず自分の周りの家族・組織を守る必要性が出てくる。それも、他の動物よりも長い時間、他の動物よりも広い空間において。

 狭い縄張りのなかで、自分と家族の生命を守るだけで良い動物には火も道具も不要である。生命維持のみを至上目的として活動すれば良いからである。自分の爪牙と健脚のみで生きていけるのである。しかし、人間は時間と空間をより多く所有するがゆえに、自分の生命維持のためには、より多くの「他人の生命維持」を図らねばならないという、目的の「交差化・二元化」が起こったと考えられる。

 そして、この「交差性・二元性」をスムーズに媒介するために生まれたのが「情愛」であり、情愛を表すツールとしての「言葉」ではないか?

 交差性と二元性。一言で言うなれば、「互助本能」である。

 それ以外に、ヒトが言葉を生産し、共有していく目的を見つけることができない。互助本能など人間にはない、と逆に定義すると、言葉を生産する必要がなくなる。他の動物と同じで良いではないか、となる。

 もちろん、当のヒト本人は、「自分の生命を守るためには、自分を取り巻くヒト・モノなどの環境の維持に努めねばならない。そのためには、こういう場合はどんな言葉が良いだろうか?」と、逐一思考するわけではない。何万年、何十万年、何百万年という、気の遠くなるほどの時の中で、死と隣り合わせの失敗と成功を幾度も繰り返した挙げ句の果てに、刷り込まれた本能として人間に備わったのである。DNA情報になったというわけだ。これが、人間の生体組織を変化させていった。大脳を生み出したのである。

 もっとも誤解してならないのは、この考え方は、「人間は生まれつき善人である」という性善説とは主旨を異にする。あくまでも、ヒトが言葉を所有したワケを互助本能であると定義しているに過ぎない。人間以外の動物は互助本能を人間ほどは持っていない。究極の選択を迫られたとき、動物は自分自身を守るが、人間は自分を殺し、他人を生かすという方法を採りうるのである。これは、人間が多量に互助本能を持っていることの証である。もちろん、生後この本能を発揮せずに、ケモノと同じように、自分の生体生命の維持だけを目的に、他人を踏みにじる人間もいる。だから、性善説とも性悪説とも異なるのである。他の動物との違いを考えたときに、明らかなのは、人間だけが互助本能を発揮する機会を与えられたということを述べているに過ぎない。

 さて、「火」は「時間」と「耳」に関係がある。同様に、「道具」は「空間」「目(と手)」に関係がある

 この関係を「言葉」においても求めるならば、こうなる。

 「言葉」→「関係」「情愛」

 言葉は、ヒトとヒトの間に関係性を生み出した。互助という関係性である。そして、この関係性は長い人間の歴史の中で、互助という迂遠なプロセスそのものを殺ぎ落としていき、「情愛」へと変質したのである。だから、家族や友人を守りたいという感情を、我々は「互助本能の発露」とは呼ばない。単に、「好き」とか「愛情」という言葉で表現するのである。互助機能が情愛として本能化しているからである。

 その証拠に、現代では当たり前のヒューマニズムは前時代では通用しない。例えば、間引き、口減らし、老人遺棄、動物愛護、環境保護、近親間婚姻など。科学文化の発展によって、人間の世界観・死生観が徐々に変わっていき、互助本能がより洗練され、情愛の性質が広域化・深化したのである。(もちろん、その逆もありうる)

 ここで、冒頭の疑問の答えが解けるわけである。

 「宗教はなぜ、言葉を重要視するのか?」

 宗教は、自分を活かし、他人を活かす方法を説くものである。つまり、宗教の本質は互助なのである。互助を説くための最短の道は、言葉の大切さを説くことである。だから、宗教は「言葉が最初に存在した」と強調する。「言葉は神そのものだ」と主張し、「言葉が万物を生み出した」と定義するわけである。

 日本にも、「言霊(ことだま)」という思想がある。

 言葉が、「ヒトとヒト」「ヒトとモノ」「モノとモノ」の関係性を定義する。定義された「ヒト」と「モノ」は無機物から有機物へと変質する。有機化された言葉を我々は「概念」と呼ぶ。概念はただの音声ではない。無機的な音声としての言葉には「暖かみ」はない。しかし、有機的な概念は、それを口で話す人、それを文字で書く人、それを耳で聞く人に、映像と情感を抱かせる。「言葉としての体温」を持つのだ。

 この「概念の体温」を実感できる人間だけが、「憧れ」を正しく行動することができるのである。憧れを正しく行動することが、ブランディングの要諦であるから、経営という大テーマの入り口は、「人間とは何か」を考え尽くすことである。

 人間の本質は、人間以外の動物との比較によってより鮮明になるというわけで、これまで、人間と動物の違いについて述べてきた。このような迂遠な論証を行ってきた理由がお分かり頂けるものと思う。

 次回は、「頭が良い人間」とは何か定義したい。

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シンボル、シンボル、シンボル!

             [日記・コラム・つぶやき] 

koumyougatsuji

 今年の大河ドラマ。司馬ファンにとっては嬉しい「功名が辻」。坂本龍馬ファンにも堪らないだろう。舞台は土佐。藩祖・山内一豊とその妻・千代の物語。

 子どもを巻き込んだ犯罪(加害者・被害者を問わず)が増える暗い現代に、日本人の美徳を感覚的に取り戻すことができる「夫婦の素晴らしい姿」が映像として観られるということは、とても意義のあることだと思う。

 土佐といえば、坂本龍馬がフィーチャーされてばかりで、藩祖・山内一豊の事などほとんどの人が知らない。もちろん、幕末時代の藩主・山内容堂が有名だから、山内姓ぐらいなら知っている人もあろうが、一豊がどんな一生を歩んだのか知らない人にとっては、果たしてなぜ、その妻・千代にスポットが当たるのか皆目見当もつかないだろう。

 だから、おのずと、「最近のNHKの常套手段で、若年層の視聴者を掴むために視聴率クイーンとして名高い仲間由紀恵を起用したのだろう・・・」といった安易な思いこみが邪魔をして、あまり良い視聴率では無いらしい。昨年の義経や、一昨年の新撰組などは、歴史に興味が無い人でも名前ぐらいは聞いたことがあるし、おおよその話の筋は知っている。

 私の妻でも、「いつの時代の人かハッキリは知らないけど、義経といえば、どっかの橋の上で弁慶とやり合ったんじゃなかったっけ?」てな塩梅(あんばい)である。

 それに主役がジャニーズともなれば、普段、歴史など見向きもせぬ女子学生・OLが、日曜日の8時にはパジャマを着てテレビの前に座るという画(え)が容易に想像できるというものである。

 その点、山内一豊はまったくの無名である。分が悪い。いくら有名な俳優を起用したところで、数字を取れる素材ではない。歴史好きにとっては残念だが、それが現実。仕方がない。

 しかし、この「現実」にこそ、ブランディングの本質が眠っている。

 数字を取れる歴史偉人と取れない偉人。その差は何か?

 答えは、「その偉人特有のエピソード・言葉・小道具があるか?」ということである。つまり、シンボルを所有しているかどうかが有名・無名の分かれ目なのだ。

<例題1>
坂本龍馬と言えば、「寺田屋で暗殺」。では、織田信長といえば?

<解>
本能寺で明智光秀に攻められ自刃。(誰でも知ってる)

<例題2>
「敵は本能寺にあり」といえば明智光秀。では、「我が輩の辞書に不可能という文字はない」という言葉を言ったとされているのは?

<解>
ナポレオン!(う~ん、誰でも知ってる)

<例題3>
青龍偃月(えんげつ)刀と言えば三国志に出てくる関羽の武器。では、新撰組副長・土方歳三の愛用の刀といえば?

<解>
和泉守兼定!(少しカルトなクイズだけど、歴史好きなら知ってる!)

 このように、有名人は独自のエピソード・言葉・道具というものを所有している。後世の我々の右脳の中に、「その偉人と関連アイテム」というセットものとして記憶を独占しているのである。

 山内一豊のドラマが数字を取れないのは、この法則性からも頷けることなのである。

 知名度は万難を隠す、という。もちろん、有名ゆえにわずかなつまづきで大きく転ぶというリスクもある。どこかのIT社長のように。

 しかし、何かで有名になることを目指すということは、成功を志す者にとっては必要欠くべからざる欲望である。人に知られなければ、自分の価値を世に問うことはできないワケじゃからして、「べつに有名になりたいわけじゃない」というのは謙虚でも何でもなく、まだ価値設計が不充分というだけのことじゃの。志が低いと言うて良いな。

 もちろん、期待通り有名になれるかどうか、それは天のみぞ知るところじゃ。人事を尽くして天命を待つ!

 人事とは、この場合、「他人が体験しえない事柄を自分だけが体験し、他人が持ち得ない道具や言葉を自分だけが所有する」ということじゃの。

 それを、自分の日常の中でどれだけ実践できるか。

 ブランディングは、「あなたは他人とはここがハッキリ明確に違っていますね」と指摘してもらえるレベルに達するということであると心得ておくが良いじゃろて・・・。

 というような事が、歴史から学べるのである。英雄ブランディングとは、かくも頼もしいセオリーなのじゃよ!(自画自賛)

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「命日」には何か法則性があるのかな?

             [日記・コラム・つぶやき]

kanrinmaru

咸臨丸、アメリカを目指し出帆(1860)

 1860年(安政7)のこの日(18日説あり)、内輪型汽帆船・咸臨丸が浦賀を出発。日米修好通商条約批准書交換のための出帆で、37 日後にサンフランシスコに到着した。5月5日に浦賀に帰港。この時、艦長として乗船した勝海舟は、奇しくも出航の日から39年後の 1899年(明治32)同日、77歳でこの世を去っている。(こちらの文章は「今日は何の日」サイトから抜粋しました)

 多くの例で検証したことは無いので、単なる思いつきで書くのですが・・・。

 坂本龍馬も確か、生まれた日(11月15日)に死んでいる。

 命日には何か法則性があるのかな?

 「英雄偉人と言われるほどの人の命日は、おおよそ、その人に関する印象的な出来事があった日に一致す」

 一度調べてみる価値あり!

 ところで、そんな法則とは別に、「自分は何月何日何曜日の何時頃、死ぬんだろう」って考えたことありません?

 なんか、私の場合、土曜日のような気がするんですよね・・・。何となく、ですけど。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> 8.初めて分かった! 「考える」の定義。
                   [1:理論編]

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 動物と人間の脳の働きの違いに注目することで、「頭の良い人間」の定義が明確になる。定義が明らかになれば、その方法もおのずと見つかるもの。すでに答えは提示した。この章のタイトルが示すとおり、「憧れると頭が良くなる」のだ。そして、この「憧れる」という動詞について正しい方法論を導き出すのが、英雄ブランディングの意義である。

 さて、人間の脳の働き、とりわけ、火を支配したこと、道具を生み出したこと、そして、言葉を生み出したこと。この三つの働きについて述べてきた。そこで分かったのは、「人間は、時間・空間・関係(つながり)について、他の動物とは比べようもならないほど進歩的である」ということだ。この進歩性が、動物と人間とを区別する基準であり、人間が万物の霊長と言われるゆえんである。

 以上のことを図解してみた。

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 動物は、「食べて生きること」そのものが生の目的である。そのために、それを阻害するものから身を守る能力が発達している。暗闇でも目が利き、何キロも離れた場所の物音を聞き分け、外敵の襲来を察知する感覚が研ぎ澄まされている。五感のみならず、六感までも総動員して情報を入手(入力)する。そして、すべて筋肉運動として出力される。生存本能を挟んで、入出力が直結しているというわけだ。

 一方、人間はどうだろう?

human_brain 人間は動物とは異なり、第六感が働く余地はきわめて少ない。ほとんどの人間は五感しか使えない。五感では感じ取れないものを感じ取るアンテナは動物に比べると貧弱である。だから、大自然のなかでは人間は動物のかっこうの餌になるのである。但し、人間が動物を支配することができる場合がある。それは、人間が組織集団を形成するときである。この図を見れば分かるように、人間は大脳新皮質の獲得と同時に、互助本能を獲得した。人間は第六感を研ぎ澄ます代わりに、人間同士が背中合わせになって助け合う仕組みを創造したのである。つまり、人間社会というものである。そして、この人間社会を大きくし質を高めるために、人間は「話す」「書く(描く)」「働く」という三つの方法を編み出した。動物が我が身と身近な仲間を守るための筋肉運動しかできないのに比べ、人間は道具を作ったり、建物を建てたり、できる。また、言葉や図画を駆使して概念というものを生産できる。もちろん、それらもすべて筋肉運動なのだが、その効果において動物よりもより多く、より長く、そして、より広範囲の仲間を助けることができる。「時間」と「空間」を大きく超えて、仲間と「関係」を結ぶことができるのである。

 そのため、脳の中でも大脳新皮質はもっとも表面積が大きく作られており、人間が社会生活を営む上で重要な機能はほとんどこの大脳において処理される。大脳はしばしば「スーパーコンピュータ」と喩えられるが、重要なのは、「人間は複雑」ということではなく、「生存本能と互助本能のバランスを取りながら演算する」ということだ。チーターの足が速いのは生存本能を抑制しようとする働きがないからである。本能のままに筋肉を動かせるように作られている。一方、人間は動物に比べると愚鈍である。それは、生存本能と互助本能との間に、自他ともに納得のいくバランスを保とうとするからである。その「間(ま)」が人間の筋肉運動の鈍さにつながっている。

 しかし、それが「考える」ということである。

 ここで思い起こされる有名な言葉がある。人間と社会に関する研究がさかんに行われたルネサンス時代、徴税官を父にもつフランスの天才数学者が書いた言葉である。

「人間はひとくきの葦にすぎぬ。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」

 パスカルは、『パンセ』のなかでこうも言っている。

「人間の尊厳のすべては、考えることのなかにある」

「考えが、人間の偉大さをつくる」

「すべての人間は幸福を求めている。これには例外がない。その手段がいかに異なっていようとも、みなこの目的に向かっている。意志は、この目的に向かってでなければ、一歩も前へ進まない。これはあらゆる人間の、みずから首をくくろうとする人に致るまでの、あらゆる行為の動機である」

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と言った。ラッセルは「人間は半ば社会的、半ば孤独な存在だ」と言い、デカルトは「心を持った機械だ」と言った。「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と言う人があるかと思えば、「ホモ・ファベル(作る人)」と言う人あり。「生産する動物」とも言われ、「道具を使う動物」とも言われる。一般には(学問的には)、「霊長目ヒト科に属するホ乳類、ホモ・サピエンス(知恵ある人)」と言われる。

 表現は様々だが、先賢もみな、「考える」ということに重きを置いたのである。上図で、そのことがお分かり頂けたものと思う。

 ところで、自分がどんな人間か、過不足なく他人に理解してもらうことが、幸福感の最たるものである。(と、少なくとも私は考える。お金を幸福の中心に据えることが如何に馬鹿らしいか、私と同年代のIT社長が見事に実証してくれたことは、とても有り難いことだ!)

 そのためには、「人間とは何か。考えるとは何か。いま自分は何を考えたのか。それゆえこのような筋肉運動を起こしたのだ」という関係性を象徴する「何か」を話すか、書く(描く)か、体現せねばならない。それが、行為とか行動の本質である。

 陽明学では行動を尊ぶ。しかし、考えもせずに行動に突っ走ることを「浅履」と言ってたしなめる。真(まこと)の実践とは、「しっかり考え、行動する」ということである。きわめて当たり前のことだが・・・。

 そして、繰り返しになるが、「考える」という行為には人間だけに与えられた気の遠くなるような仕組みが眠っているのである。この天与の能力を駆使することが、人間が生きるということであり、生活の根本である。

 さて、次回からは「考えることを上手にできる人」、つまり「賢い人・幸せな人」の定義を解き明かしてみたいと思う。そこから、マーケティングの基礎も見えてくるし、成功哲学に関しても深い理解が得られるはずだ。そして、何よりも、「正しく憧れるだけで成功できる」という仕組みの初歩が理解できるはずである。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> 9.「頭が良い」に関する真説
                   [1:理論編]

 さて、「頭が良い人」という概念も様々な見解が分かれるところである。古今、才能論は尽きない。しかし、これまで述べた人間観を土台にすれば、「頭が良い」ということがどういうことか容易に導き出せる。

 ここで再び最初のキーワードが重要になってくることが分かるのである。

 「1.交差点の生きもの、人間。」の最後で、このように定義した。

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 このことからも分かるように、人間は、肉体だけでは人間たり得ないのである。過去と未来のはざま、人と人との間で生活することで、はじめて人間として機能するのである。人間は、時間の縦軸、社会の横軸の交差点の真ん中に立って生活している。
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 人間は、「社会空間」と「時の流れ」が交差する「現在」という点を生きている。そして、その点の上で「関係」を結ぶ。このことは、人間の脳の特異性からも説明できることは、前項で示した図でも明らかである。

human_brain

 なぜ、人間は動物に比べて、第六感が鈍いのか? それは、助け合うことで互いを守ることができるためである。なぜ道具を作ることができるのか? それは、仲間(社会)を助けることで自己の保全を図ることができることを知っているからだ。なぜ言葉を生み出し、自由に操ることができるのか? それは、より広い社会とより濃厚な関係性を築くことが自己防衛本能に叶っていることを知っているからだ。

 以上のことから、人間としての「頭の良さ」は以下のように定義づけられるのではないか?

●「人を助ける」ことが生きることの中心にあること

社会奉仕という言葉や「世のため人のため」という標語がただの記号ではなく、その人の人生観の基調色となっている。

●社会に対する関心が強いこと

アスリートやレーサーが持っている空間認識能力を身体感覚的な能力だとすれば、ここでいう「社会への関心」は、社会感覚的な空間認識能力だと言える。

●時間に対する関心が強いこと

ただの懐古主義ではない「歴史への探求心」と、歴史から得られる知性・感性を未来設計へと結実させようとする意志のこと。『論語』の温故知新のことである。

●人間に対する関心が強いこと

上記の「人助け精神」「空間認識能力」「時間への意志」は、具体的には人間への関心として表現される。働くこと、話すこと、書くことを中心とする筋肉運動と概念生産は、人間への関心範囲に左右される。

 ノブレス・オブリージュという言葉は、「恵まれた立場の人はそれ相応の社会的義務を負うべきという考え方」と一般的に解釈されるが、私はこの四大条件こそがノブレス・オブリージュの本旨であると思う。

 また、この四大条件から人間の様々な能力を俯瞰的に眺めてみれば、一般的な才能論がいかに底の浅いものか分かる。

 本をたくさん読んでいること、事務処理能力に長けていること、言葉を操る技術に長けていること、ボキャブラリが多いこと、決断力に富んでいること・・・。

 優れた知性・感性の定義は様々だが、それらはすべて、「頭の良さ」の構成要件の一つではあるが、本質そのものではない。

 すべて上記の四条件へと集約されるのでなければ、ただの技能的特徴に過ぎない。

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