【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
>>> 7.人間と言葉と
[1:理論編]
【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
>>> 7.人間と言葉と
[1:理論編]
「旧約聖書」創世記十一章、「バベルの塔」のエピソードは、人間が言葉を得たことの重要性を物語っている。
もともと人間は同じ一つの言葉を話していた。人々はれんがとアスファルトを用いて天まで届く塔をつくろうとした。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった・・・。
また、「新約聖書」ヨハネ福音書第一章の冒頭には、「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉は神なり」とあり、「よろずのもの、これによりて成り」と続く。
火・道具・言葉の三つは、人間とその他の動物とを区別する大きな溝である。この三つに軽重はない。どれか一つが欠けても人間の歴史は成り立たなかっただろうし、逆に、どれか一つが出現した時点で三つが揃う条件が整ったのだと思う。だから、なにゆえ、聖書が「言葉」のみを重んじるかと首をかしげたくなる。この三つが人間を人間たらしめていると論じていても良いはずであるのに、聖書は「言葉」を冒頭に掲げ、「言葉は神である」と定義している。(私はクリスチャンではないが、言葉に関する新約聖書の記述があまりにも有名なので例示した。おそらく、他の宗教でも言葉を最も大切に扱っているのではないかと思う)
しかし、よくよく考えてみると、やはり言葉がなければ、人間は火も道具も、今のようには上手に自分たちのものに出来なかったに違いない、という結論に至る。
例えば、ジェスチャーゲームをしてみると、言葉の大切さが身にしみる。両手で山型を作って、両手が交差するポイントから何かが吹き出しているジェスチャーをしても、それが、「山の頂から何かワケの分からないものが吹き出している。どうやら危険そうだ。早く逃げよう!」という警告が相手に伝わるかというと、どうも心もとない。
そういう失敗体験を何万年も繰り返し、ようやく人間は、原初の言葉(らしきもの)を発声できるようになったのだろう。動物の鳴き声の模倣から始まったのかも知れない。
以前、知人から面白い話を聞いたことがある。「地球上のどの言語においても、警告のための言葉は人間の声帯にとって、最も発音しやすく、発音の時間が短い」というのだ。
他人に注意を喚起する際に用いる呼びかけ語は、たいていの場合、短くて撥音をともなう。日本語では「オイ!」、英語では「Hey!」など・・・。すべての言語について調べるわけにはいかないが、おそらくこの法則は正しいだろう。より遠くまで音が伝わる周波なのだろう。この点はもちろん、人間以外の動物も同じである。
しかし、人間と動物が大きく異なる点がある。
それは、人間が「警告音に留まることなく、その他の多様な言葉を持ったこと」である。
自分と数少ない仲間の生命を守るためだけならば、警告音とその他のわずかな音で事足りるのである。「食べる事」「生命の危険から身を守る事」に関する音のパターンで、充分に種を守っていけるのである。
しかし、ヒトだけが、それ以外の多様な発声パターンを開発していき、それを種のなかで共有していった。
火・道具によって、長期化した狩猟時間・生活時間。広域化した縄張り(居住地域)。それにより増した危険性。
そのような厳しい環境下において、自分を守るためには、まず自分の周りの家族・組織を守る必要性が出てくる。それも、他の動物よりも長い時間、他の動物よりも広い空間において。
狭い縄張りのなかで、自分と家族の生命を守るだけで良い動物には火も道具も不要である。生命維持のみを至上目的として活動すれば良いからである。自分の爪牙と健脚のみで生きていけるのである。しかし、人間は時間と空間をより多く所有するがゆえに、自分の生命維持のためには、より多くの「他人の生命維持」を図らねばならないという、目的の「交差化・二元化」が起こったと考えられる。
そして、この「交差性・二元性」をスムーズに媒介するために生まれたのが「情愛」であり、情愛を表すツールとしての「言葉」ではないか?
交差性と二元性。一言で言うなれば、「互助本能」である。
それ以外に、ヒトが言葉を生産し、共有していく目的を見つけることができない。互助本能など人間にはない、と逆に定義すると、言葉を生産する必要がなくなる。他の動物と同じで良いではないか、となる。
もちろん、当のヒト本人は、「自分の生命を守るためには、自分を取り巻くヒト・モノなどの環境の維持に努めねばならない。そのためには、こういう場合はどんな言葉が良いだろうか?」と、逐一思考するわけではない。何万年、何十万年、何百万年という、気の遠くなるほどの時の中で、死と隣り合わせの失敗と成功を幾度も繰り返した挙げ句の果てに、刷り込まれた本能として人間に備わったのである。DNA情報になったというわけだ。これが、人間の生体組織を変化させていった。大脳を生み出したのである。
もっとも誤解してならないのは、この考え方は、「人間は生まれつき善人である」という性善説とは主旨を異にする。あくまでも、ヒトが言葉を所有したワケを互助本能であると定義しているに過ぎない。人間以外の動物は互助本能を人間ほどは持っていない。究極の選択を迫られたとき、動物は自分自身を守るが、人間は自分を殺し、他人を生かすという方法を採りうるのである。これは、人間が多量に互助本能を持っていることの証である。もちろん、生後この本能を発揮せずに、ケモノと同じように、自分の生体生命の維持だけを目的に、他人を踏みにじる人間もいる。だから、性善説とも性悪説とも異なるのである。他の動物との違いを考えたときに、明らかなのは、人間だけが互助本能を発揮する機会を与えられたということを述べているに過ぎない。
さて、「火」は「時間」と「耳」に関係がある。同様に、「道具」は「空間」「目(と手)」に関係がある。
この関係を「言葉」においても求めるならば、こうなる。
「言葉」→「関係」「情愛」
言葉は、ヒトとヒトの間に関係性を生み出した。互助という関係性である。そして、この関係性は長い人間の歴史の中で、互助という迂遠なプロセスそのものを殺ぎ落としていき、「情愛」へと変質したのである。だから、家族や友人を守りたいという感情を、我々は「互助本能の発露」とは呼ばない。単に、「好き」とか「愛情」という言葉で表現するのである。互助機能が情愛として本能化しているからである。
その証拠に、現代では当たり前のヒューマニズムは前時代では通用しない。例えば、間引き、口減らし、老人遺棄、動物愛護、環境保護、近親間婚姻など。科学文化の発展によって、人間の世界観・死生観が徐々に変わっていき、互助本能がより洗練され、情愛の性質が広域化・深化したのである。(もちろん、その逆もありうる)
ここで、冒頭の疑問の答えが解けるわけである。
「宗教はなぜ、言葉を重要視するのか?」
宗教は、自分を活かし、他人を活かす方法を説くものである。つまり、宗教の本質は互助なのである。互助を説くための最短の道は、言葉の大切さを説くことである。だから、宗教は「言葉が最初に存在した」と強調する。「言葉は神そのものだ」と主張し、「言葉が万物を生み出した」と定義するわけである。
日本にも、「言霊(ことだま)」という思想がある。
言葉が、「ヒトとヒト」「ヒトとモノ」「モノとモノ」の関係性を定義する。定義された「ヒト」と「モノ」は無機物から有機物へと変質する。有機化された言葉を我々は「概念」と呼ぶ。概念はただの音声ではない。無機的な音声としての言葉には「暖かみ」はない。しかし、有機的な概念は、それを口で話す人、それを文字で書く人、それを耳で聞く人に、映像と情感を抱かせる。「言葉としての体温」を持つのだ。
この「概念の体温」を実感できる人間だけが、「憧れ」を正しく行動することができるのである。憧れを正しく行動することが、ブランディングの要諦であるから、経営という大テーマの入り口は、「人間とは何か」を考え尽くすことである。
人間の本質は、人間以外の動物との比較によってより鮮明になるというわけで、これまで、人間と動物の違いについて述べてきた。このような迂遠な論証を行ってきた理由がお分かり頂けるものと思う。
次回は、「頭が良い人間」とは何か定義したい。
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