歴史から学ぶ[プライベートブランド]の作り方

英雄・偉人のブランディング秘策

例えば、坂本龍馬のような事業家になれる方法?!


 [1:理論編 なぜ歴史偉人から学ぶのか]
 [1:理論編]のアウトライン
 

[1:理論編 なぜ歴史偉人から学ぶのか?] では、以下のようなテーマを準備している。

Ⅰ:憧れることの効用

●憧れると頭が良くなる
●憧れると心が美しくなる
●憧れると健康になる

Ⅱ:誰でも英雄になれる

●明確な英雄観を持とう
●明るい嫉妬心を燃やそう
●「憧れる」の定義が間違っている
●英雄を渡りあるこう
●頭の中は毎日「戦国自衛隊」

Ⅲ:英雄とはどんな人のことか

●骨太な価値観
●割り切れない
●一点だけ異なる

Ⅳ:英雄に学ぶ姿勢

●目と耳が2つずつあるワケ
●「つながっている感」を持てるか?
●口が1つしかないワケ
●上品な人、下品な人

Ⅴ:歴史に学ぶ人は歴史に歓迎される

●間違った歴史のお勉強
●寺子屋の効用

Ⅵ:結局、思い描いた通りにしかならない

●ホントに「成せば成る」のか?
●右脳を使う習慣づくり

日常の様々な気づきから順序が変わったり、新しい項目が追加されたりすることもあるが、おおむね、このような流れである。

この編では、「ビジネス」と「歴史を勉強すること」がいかに密接な関係を持っているかを述べていきたい。

最初から歴史が好きな人は、この英雄ブランディングの趣旨に賛同して下さるものと思う。特に訴えたいのは、歴史が嫌いな人、ビジネスと歴史の関係性に今まで目をつぶってきた方だ。

経営者・経営幹部・リーダーたるもの、「世の中のすべての事象はつながっている」という基本摂理を心得ておきたいものである。成功者はつながってる感の持ち主であり、つながってる感の具現者である。逆に、つながってる感を持たない者は必ず失敗する。

※注: ここでいう成功とは、単に「経済力の獲得」という意味ではない。いま流行の「セレブ」「金持ち~」になることを成功とは言わない。あれは、あくまで「経済力の獲得」に過ぎない。成功とは、「人倫を踏み外さず、自他を区別なく愛することができる人間性の陶冶を通して、世界で唯一の個性を具現化した結果、経済力と尊敬を獲得し、自分の死後も存在し続ける社会的な価値づくりの実現」のことである。短く言えば、「王道を歩む」ということである。「取る」ことばかりを説く「成金ノウハウ」は覇道である。

そのことを教えてくれるのは歴史である。古今東西の英雄であり、失敗者たちである。

ビジネスマンこそ歴史のプロフェッショナルでないといけない。

これが英雄ブランディングを提唱する根拠である。

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はじめに(1)
ある同級生の言葉
                   [1:理論編]

高校3年生。受験する大学もいくつかに絞り、最後の追い込みという時期。あるクラスメートが私に問うてきた。

「学部はどこ入るねん? 商か経か?」

「いいや。文やけど?」

「文学部? 文で何すんの?」

「えっ? 歴史やりたいねん」

「はぁ? 歴史? お前のおやじさん、
  経営者や
なかった? お前、あと継げへんの?」

「いやぁ、まだ分からんけど、あと継ぐにしても、
  
歴史はやるつもりやで」

「はぁ? 経営者やったら商か経、行っとかなあかん
  やろ? なんで歴史やねん?! お前、ほん
ま歴史
  
好きやなぁ」

学生時代から、歴史や古文の点数は良かった。級友もそのことは知っている。大学で歴史を勉強することは趣味の延長として認識されたようだ。

しかし、私はいわゆる「歴史ズキ」ではない。三国志の登場人物をヒットポイントとともにすべて暗唱しているデータ派でもなければ、徐福が本当に日本に辿り着いたのか仔細に文献や遺跡を巡って探求していく学究派でもない。(最初は考古学者か歴史学者になりたかったのだが・・・)

あくまで、「人間学」である。少し昔なら「帝王学」と言っただろうが、西武グループの堤氏の企業不祥事が取り上げられたとき、マスコミが帝王学という言葉を「金と人を動かす手練手管の集大成」という意味で頻用した。(本来それは「覇道の術策」と紹介すべきである)



teacher00 ともかく、「歴史」というものは万人に普遍的な価値観を与えてくれる唯一の教材なのだが、そのことを学校では教えてくれない。教えてくれるのは、文部科学省が定めた「歴史科」に過ぎない。

前記のクラスメートの歴史意識も仕方ない。彼だけではなく、世の中の大半がそんな程度の歴史意識しか持たされていない。

(つづく)




次回予告: 「歴史は家庭で学ぶが良いみたい」

2,3日中にお届けします。


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はじめに(2)
歴史は家庭で学ぶが良いみたい
                   [1:理論編]

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私に歴史という「道」を教えてくれたのは家庭である。公認会計士の資格を取った父は会計事務所とコンピュータシステム開発会社を設立した。様々な局面で自己と対峙することで、財務会計に関する知識・見識がどんなに高かろうとも、「経営者としての資質は知識・技能とは別である」と痛感した父は、歴史・精神世界に関心を持つようになった。そんなおり、家庭ではようやく文字を読めるようになった私が、本に関心を持つようになった。最初はひらがなばかりの偉人伝。両親が毎週欠かさず観ている大河ドラマ。父と母の間で繰り広げられる祖先自慢。江戸時代、百姓の子がヒゲを生やした漢学の先生に額づいて論語を覚えた、いわゆる「寺子屋」のように、私にとって自分の家は「学び舎(や)」そのものだった。父親がいないときは、父の書斎の椅子にちょこんと座って史記などを読んだものである。但し、何が書かれてあるのか、その当時の私はまったく理解していない。ただ活字というものに慣れ親しんだ。

だから、学校で教わる歴史は「薄皮の表面に過ぎない」という意識が中学生の頃に芽生えた。歴史の教科書は私にとって、新聞のテレビ欄のようなものに過ぎなかった。ただのメニュー表である。

 年表・人名・事件名・地名といった記号だけを教わるだけで、その記号の関係性や記号が意味するところを教えてくれない形骸的な教育は、子どもに学問から遠ざからせる最も有効な手段であろう。事実、戦後日本の教育が日本人を骨抜きにした。そのことはもっともっと語られて良いし、政治家・教育者のみならず、企業家も意識すべきであろう。

我々一人ひとりが、「自分がいま、ここにいる意味・目的」を探ることに一所懸命になりさえすれば、他国の愚民化政策に屈することはないだろうし、歴史を記号学としてではなく、真の人間学問として学び取る力が養われるだろう。

その点、現代の日本はひどい。まさに世紀末である。精神が荒廃したカオスの時代である。

経営者になることと歴史を学ぶことの関係性を読みとれなかった私のクラスメート。彼が14,5年前の学生の一般的な意識だろう。また、いま30歳代のビジネスマンの多くは、あの程度の歴史意識しか持っていないだろう。そして、その次の世代。30歳代の次の子どもの世代。その子らが成長したとき、日本はどうなるのだろう。

と、そんな先のことを危惧せずとも、現代の中高生。彼らの意識はどうだろう?

「経営者になることと歴史を学ぶことの関係性」どころの話ではない。記号学とはいえ現代の教育にもメリットはある。記号学でも語彙力・概念咀嚼力をつけるには充分である。その記号学ですら受け付けない現代の若者たち。そして彼らに合わせようとする国のゆとり教育。就職する意味や、家庭を形成する意味や、友人を大切にする意味や、自分自身が生きる意味や、他人と共生する意味や、色んな価値観が壊れてきている現代。

もうすでに、「歴史は大切だ」といった話が彼らの心に届くレベルではないのだ。すでに愚民化は完了していると言っても良いだろう。そう絶望せざるをえない様相を呈している。

 これを何とかすることはできないのだろうか?



 「だから、小泉さんには期待している!」


 「いやいや、民主党だろう!」


 政治ももちろん大切だ。無関心ではいられない。

 しかし、われわれは政治家に期待し評論し非難するだけで良いのだろうか?

 ドングリの背比べに一所懸命な数百人の代議士と、自分の老後の生活だけが関心事の数万?人の公務員。

kajitori  それよりももっと多く、大きな影響力を持ち、国の行く末を左右する力を持っているのは、「事業家」や「経営者」だろう。上場企業のCEOから個人事業主まで、いわゆる「商売人」こそが、日本の舵取りをしていかないといけないのではないのだろうか?

 いま日本のビジネス社会は、「金儲け主義バンザイ」「拝金至上主義」「セレブバブル」に陥っている。

 「術」ばかりが尊ばれて、「道」がない。

 「術」ばかり肥えた起業家がどんなに増えようとも、何の意味もない。マスコミを少しにぎわすだけの効果しかない。日本の未来が明るくなるわけではない。

 「歴史」が最も「道」というものに深く関わっており、「道」というものが「商売人」を育てるということ、つまりは国を富まして(精神的に、そしてその結果、経済的に!)、次の世代を育てていく王道であるということ。

 私は若輩で能なしだが、それを信じる情熱だけは人一倍と自負している。

 ただそれだけの自負を根拠として、歴史とマーケティングの関係性を経営者をはじめビジネス社会の方々にお伝えする活動を始めた、という次第である。

(つづく)


次回予告: 「英雄ブランディングの目的

3,4日中にお届けします。

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はじめに(3)
英雄ブランディングの目的
                   [1:理論編]

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 話は戻るが、私は寺子屋(家庭)で歴史を学んだ。歴史科を修得したのではなく、歴史意識を陶冶したと言うべきだろう。そんな我が家では自然と、「寺子屋」というキーワードが重要なポジションを占めていた。私が海外でホームステイを経験したときも、逆に我が家がホストファミリーになったときも、両親と私をつなぐキーワードとして「寺子屋」という言葉が頻出した。

 だから、いま私が行っている活動のすべてに、この「寺子屋」という言葉が持つ文化・精神・効能が包含されている。

 英雄ブランディングの目的もここにある。

 元々、考古学者か歴史学者になりたかった私が、就職活動をし、サラリーマンになり、いまは会計システムを主なコンテンツにする企業グループに参画しているのは、ひとえに「寺子屋を作る」という目的を完遂するためである。

 もちろん、まだ寺子屋ビジョンを明確に具体化できているわけではない。完全に画を描ききっているわけではない。それは、英雄ブランディングをはじめ、様々な活動を通して肉付けされていくだろう。また、ビジネスプランなど机上でできるものではない。現場経験を積み上げた感性、身体性が醸成されて織りなすものだ。

 さて、「寺子屋、寺子屋」というが、どんなコンテンツを、どんなターゲットに、どんなコンテキストで届けるのか? それが問題である。

 いまの私には、現代の子どもたちや親御さんたちにリーチするコンテンツも手段もない。教育の現場にいないし、子どももいない。

 いま私が属しているのは、経営・会計・システム・マーケティングといったビジネス世界である。お客様は、経営者、もしくは経営者に準ずる立場の人。それを目指している人である。

とはいえ、いわゆる経営論はすでに先人がたくさんいる。オンリーワンになれる空席はないものか?

そこに、「歴史」というキーワードを投げ入れてみると途端に空席が浮かんで見えた。

 そうやって生まれたのが「英雄ブランディング」である。

 お分かり頂けただろうか?

 寺子屋を作るというビジョン。そして現在のポジションから生まれた事業プラン。その一つが、英雄ブランディングである。

 さて、くだんのクラスメート。

 彼の言いぶんも分かるのである。

 しかし、ビジネスに歴史は必須である。

 そのことは実は様々な事象を通して証明されていることでもある。

 知っている者だけが知っていて、知らない者は知らない。ただそれだけのことだ。

 問題はそれをどうやって知るか、ということである。学校で教えてくれるわけがない。家庭でも、難しい。友人? 恋人? まさか!

 ビジネスの現場で導き出されるマーケティング発想やアイデア。それを横軸とすれば、「歴史」は縦軸だ。

 この軸が交差するポイントにおいて修得できる知性・感性・身体性。それを英雄ブランディングは提供したい。

 このサイトの表題通り、坂本龍馬のような事業家になるための知性・感性・身体性を明らかにするのが、英雄ブランディングの目的である。

 ・・・と、そういう思考プロセスで、第1章のアウトラインを見ていただけば、この英雄ブランディングに期待すべき効果がお分かり頂けると思う。


(つづく)



次回は・・・

Ⅰ:憧れることの効用
●憧れると頭が良くなる
●憧れると心が美しくなる
●憧れると健康になる


1週間以内にお届けします。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> ①交差点の生きもの、人間
                   [1:理論編]

本日から、(1)理論編 がスタート! 理論編は、週に1~2回の更新予定!!

kousaten  人間は、時間と人によって制限されながら生きている。ギュウギュウ寿司詰めの雑踏の中では、自分の進みたい方向になかなか歩けない。無理に群衆を押しのけようとしても跳ね返される。かえって、群れの動きに体を合わせていると、うまく人と人の間をすり抜けることがある。人生もそれと同じようなもので、自分自身の決断で生きていると思っているのは、当の本人だけ。

 人間は、時間という縦軸、他人との関わりという横軸が交差する「点」で生きている。人によって、この点の大きさは異なるが、この点が大きくなったり小さくなったりしながら、確実に未来へ向かって進んでいく。
 
但し、点の大きさ、つまり他人との関わり合いの頻度や密度によって、未来へと進む体感スピードは異なる。自分の部屋にひきこもってしまう子どもにとっては、日々はたとえようもなく長くつらいに違いない。その結果、そのつらさに堪えかねて自分や他人を傷つけるという行動に出るのかも知れない。一方、喜びや楽しさに満ちあふれたコミュニケーションは一瞬で過ぎ去ってしまう。人間は、「時」を時計で知るのではない。「あたま」と「こころ」で知るのである。このことは人種・地域・性別・年齢に関係なく、人間に平等の法則である。

 人間という言葉が、「人の間」を表しているように、人は人の間でないと生きていけないようになっている。
 
例えば、「アイランド」という映画で、クローン製造会社の経営者(ション・ビーン演じる悪役)が、こんなことを言っていた。

  「オリジナルの検体から採取した細胞を元に成形された
   肉のかたまり(植物状態のクロ ーン)はすぐに死んでし
   まう。だから、言葉や記憶、感情を与えなければ、商品
   として成長しない」


 
この映画は、クローンとして成長した人間に人権や個性はあるのか、ということがテーマの近未来サスペンスアクションである。オリジナル検体(クライアント)の細胞から臓器(クローン)を作っておき、クライアントが重い病気にかかったり、事故に遭ったとき、クローンから臓器を抜き取り、オリジナルに移植するというアイデアがベースになっている。このクローン製造会社では最初、クライアントから採取した細胞をモノ(臓器のかたまり)として成形・保存していた。しかし、なぜかすぐ死んでしまう。健康な臓器が育たない。そこで、人間として成形することにした。すると、クローンは健康体のまま成長する。クライアントやマスコミにはそのことを秘密にしているが、ある日、自分の存在に疑問を持ち始めたクローンが施設を逃げ出して、自分のオリジナルを探しはじめる・・・。

 このことからも分かるように、人間は、肉体だけでは人間たり得ないのである。

 過去と未来のはざま、人と人との間で生活することで、はじめて人間として機能するのである。

 人間は、時間の縦軸、社会の横軸の交差点の真ん中に立って生活している。



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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> ②差を生みだすのは人間の特殊性ゆえ
                   [1:理論編]

purin  そんな「交差点の生きもの・人間」に特有の精神作用がある。
 「憧れる」ということだ。「なりたい自分イメージを描くこと」と言っても良い。

 例えば、チワワがドーベルマンになりたいと駄々をこねることはない。チンパンジーがゴリラの腕力をねたむということもない。タヌキがキツネのスマートなイメージを羨むこともなければ、イノシシが鳥のように飛びたいと願うこともない。うちの犬は私が食べているものを欲しがるが、決して人間の食生活を憧れて欲しているのではない。本能として旨い食い物を欲しているだけだ。

 こう考えていくと、ほとんどの動物は「憧れない」ことが分かる。人間だけが憧れる。人間のほうが特殊なのである。珍獣という言葉があるが、珍しいのは人間のほうである。

 時間の縦軸、空間(社会)の横軸の交差点で生きているという事実においては、人間もその他の動物も同じである。しかし、そのことを認識できるのは人間だけである。我が家の犬は、まさか自分が、「交差点の生きもの」だとは自覚していない。

 この能力こそが、人間が万物の霊長と言われるゆえんである。

 人間以外の動物は、みな生まれてきたままの自分というものに微塵も疑問を持たない。

 人間だけが過去の自分と現在の自分を比較し、未来の自分に期待する。もちろん、幻滅し絶望することもある。人間だけが、自分と他人を比較して、ほくそ笑んだり、うなだれたりする。人間は、「自分」というものを良くも悪くも意識して生きている。そうしないと生きていけない生きものなのだ。

 そして、その人間特有の能力(本能)こそ、人と人の間に差を生みだす源である。
 成功者と落伍者。富める者と貧しい者。社交的な者と内向的な者。勉強好きと勉強嫌い。リーダーとフォロワー・・・。人間関係に生まれる差異を無くすことは不可能である。すでに述べたように、人間は人間ゆえに、差を生みだすのである。人間は相対性の生きものなのである。

 一方、人間以外の動物は絶対性の生きものである。「金持ちの人間が飼っている犬」はあっても、「金持ちの犬」などありえない。動物は、たいてい、生来の能力というものを疑うこともなく、また慢心することもなく、ただ、あるがままに受け容れ、生き、死んでいく。

 人間は、己れを知る能力・本能ゆえに、自己と他者の間に相対差を認識し、時に、相対差を創り出すこともある。

 この「相対差を創り出す人間特有の生存システム」が、われわれ人間が未来永劫に繁栄していくメカニズムでもあり、逆に、人類を滅亡へと駆り立てる遠因でもあるのだ。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> ③頭が良い動物とは
                   [1:理論編]

mouse 頭が良いとはどういうことか?
 これも、人間と動物の違いを紐解くことで容易に理解できる。

 「頭が良い犬」「頭が良いチーター」「頭が良いゾウ」とはどういうことを指すのか?

 それは動物の脳の仕組みを考えてみると分かりやすい。
動物の脳は、簡単に言えば、「入力」と「出力」が直結している。

 ビデオの入力端子とテレビの出力端子を結ぶケーブルのようなイメージである。テレビで受像した映像が出力端子を通って、ビデオの入力端子から取り込まれ、ビデオテープに録画される。これと同じように、きわめて単純な仕組みである。

 動物は、獲物を発見すると襲う。そのことに、戸惑いはない。草食動物においても、それは変わらない。旨そうな草があれば躊躇なくそれを口に入れる。「食糧の発見」という入力、「食糧の獲得」という出力が直結しているためである。この入出力システムを統御しているのは「本能」である。「生きる」という本能である。そのため、満腹状態であってもどんどん食べることができるし、冬眠中の食糧を食いだめする動物もいる。牛などは複数の胃を持っている。また、毒物に対する感覚や生体機能が優れているため、毒性のある食糧を避け、口に入った毒物を分解する能力が高い。食べることが生存本能の至上命令だから、そのような体の仕組みになったのだ。

 もちろん、飼い犬などの場合、「待て」などのコマンドで、食べないことを教えることはできる。しかし、それは犬の本能ではない。飼い主のコマンドを聞くことで褒められ、結果的に、より多くの食糧を得ることができるため、「待て」のコマンドに従うことも、食べるための一環であると本能的に学習するのである。

 このことから、「頭の良い動物」とは、「単独で食糧を確保する能力に優れていること」であると理解できる。

 食糧獲得という本能を満たすためにとる方法は、種によって異なる。群れを形成する種もあるし、単独で行動する種もある。

 しかし、「食糧確保能力に優れていること」が、動物世界における「頭の良さ」の指標であることは間違いないだろう。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> ④人間は大脳
                   [1:理論編]

brain その一方、動物界の「頭の良さ」の定義において、人間は著しく劣っている。

 人間は、虎やライオンよりも速く走ることができない。鷹や鷲のように空を飛ぶこともできない。鰹やマグロのように海を泳ぐこともできない。基本的に、一旦満腹になると、腹が空くまで食糧は入らないし、道徳心が邪魔をして目の前にある食糧を空腹だからといって勝手に食べることもできない。食いだめも寝だめもできない。子どもを10ヶ月も胎内で育て、出産後も子どもが一人前になるまで面倒を見ないといけない。ハンディキャップを背負っている仲間を見捨てられない。電車の中で傷を負った老人をずっと立たせておくことに良心の呵責を感じる。

 その点、動物は容赦がない。不具で生まれてきた仲間を虐めて殺すことがある。群れの秩序と強さを守るために弱者を容赦なく排除する。自分たちの食糧確保と生存本能に反する存在を徹底的に排除する。そこに善悪の判断はない。

 人間は、動物から見れば、何とも弱々しい。

 では、人間はどのような脳の仕組みで生きているのだろうか?

 動物と異なり、人間の脳は、入力端子と出力端子の間に大きな処理装置がついている。明確に言うと、この処理装置は「大脳新皮質」と言われる部分である。チンパンジーなどのわずかな例を除いて、人間以外の動物には大脳は存在しない。人間も元々は他の動物と同じように、食糧を獲得し生存することを唯一の本能として生きていた時期があったらしい。間脳などはそのなごりであると言われている。医学的に分析すれば、枚挙に暇がないが、この大脳新皮質の働きを、動物との差において定義すると、わずか三項目に絞ることができるだろう。

 あくまで私見だが、その三つとは、

 「言葉」

 「火」

 「道具」

である。

 人間以外の動物と、人間の間に横たわる大きな溝の正体は、この三つである。そして、この三つゆえに、人間は大脳新皮質の働きの中で、最も神秘的で魅力的な働きを自由自在に使うことができるのである。

 そう! 「憧れる」という天賦の機能を!!

 人間は大脳のおかげで人間らしく生活できるのである。

 人間とは大脳そのものである。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> ⑤人間と火と
                   [1:理論編]

flame 英雄ブランディングを実践するにあたって最もベーシックな概念は、「憧れる」ということである。「憧れる」など誰でも普段からやっていると思いがちだが、実はほとんどの人が「憧れる」という動詞の正しい意味を理解していないか、もしくは理解が不充分なために、「誰でも成りたい自分になれる」という特権を活かせないでいる。日常生活やビジネスにおける、ほとんどの不幸は結局、「憧れる」ことへの誤解から来ている、というのが私の持論だ。これを糺(ただ)しさえすれば、ほとんどの人が、ほとんどのケースにおいて、幸福な成功体験を積み重ねられるはずだ、と私は確信している。この理論編は、それを解き明かそうという試みである。

 さて、動物と人間の決定的な違いは「憧れる」という本能の有無である。この人間特有の本能は、なにゆえ、人間にしか授けられていないのか? それは動物との違いを仔細に見ていけば分かるだろう。

 そういうつもりで、これまで、動物と人間の「脳の差」を考えてみた。前項で述べたように、人間の大脳新皮質がそのカギを握っていると考えられる。そして、大脳の様々な機能を大雑把に大別すると、「言葉」「火」「道具」の三つになることが導き出せる。
但し、この三つは文字通りの意味ではない。あくまで、人間特有の精神活動・身体活動のことを、この三つが象徴しているに過ぎない。

 さて、この項では、「火」について論じたい。一つ目の「言葉」は三つの中で最も深淵なテーマであるから、一番最後にまわすことにしよう。

 火-

 火は人間に何をもたらしたのか?

 おそらく、最初、人間の祖先も火を恐れただろう。山の頂から吹き出る炎を見て、または枯れ葉の摩擦から生じた山火事を見て、生命の危機を感じ取ったはずである。しかし、一方で、火の利用法をも同時に感じ取っただろう。

 その熱によって、形あるものに変形をもたらし、硬化をもたらし、終焉をもたらすことができる、この強力な武器。その明るさによって、夜の暗闇から恐怖を取り除いてくれる、この心強い友人。その殺菌力で、生ものの腐蝕を防いでくれる、このありがたい贈りもの。

 火の力を人間がコントロールすることができれば、それはあらゆる生命の危険から身を守ることになるのである。そして、実際、人間の祖先は、火を創造し、維持し、利用し、管理する能力を身につけた。他の動物から襲撃される危険性を防ぐと同時に、他の動物を捕獲して食することができる万物の霊長としての特権を得たと言える。

 それだけではない。他の動物よりも強力な武器を得たというアドバンテージだけなら、まだ相対的に過ぎない。火を手にした人間とて、巨象の足にはかなわない。

 火によって、人間が得た最大の利点。他の動物を圧倒する絶対的な条件。

 それは、「時間」である。

 個体として、または種族集団としての寿命と言い換えても良いだろう。

 確保した食糧に火を通すことで、毒性を消し、寄生虫を殺し、保存性を高めることに成功した。ということは、集団全体の生存力を高めることになったわけである。これはすなわち、その集団の中に機能的役割と階級を作り出す要因にもなっただろう。リーダーに統率され、各種の役割を果たす人間の集まり。つまり、「組織」の原初形態が生まれたであろうことが想像できる。

 その証拠に、今でも権威あるもののそばには必ず火がある。祭壇や塔、建物など。火は、「権威」の最も象徴的なモチーフである。

 また、食糧保存力の向上によって寿命が伸びたという事以外に、時間の利点はある。
例えば、狩猟そのものの時間的延長をもたらしたはずである。それまでは、わずかな食糧を携えて狩猟に出て行ったはずだ。しかし、保存食をたくさん所持できるということは、狩猟時間の拡張をもたらすわけである。

 そして、さらに火によって加工できるのは食糧だけではないことに気づき始めたはずだ。食器、武器、住居など。あらゆるものが火の力によって、時間の制約から抜け出せることに気づいたのである。また、その延長線上に、「道具」という二つ目の特権を人間が得ることにつながるわけである。

 このように考えていくと、火によって人間が得られたものは、他の動物からの護身や、他の動物への攻撃、その結果としての食糧だけではないことがわかる。

 我々が普段目にする動物が、明らかに意識していないと思えるもの。そう、時間という概念を人間は火によって手にしたのである。

 そして、さらに考えてみる。時間は人間に何をもたらしたか?

 その答えは次項の「人間と道具と」でより明確になるが、先に答えを提示しておこう。

 時間によって得られる副次的な利点。

 それは、空間である。

 昨日よりたくさんの食糧を持って狩猟にでかけた人間の祖先は、その食糧的余裕によって、時間的余裕を手にして、さらに狩猟地域を拡張することができたはずである。

 狩猟はもちろんのこと、生活のあらゆる場面において、時間的な制約から解き放たれた結果、空間的拡張という財産を得ることができたと考えて良いだろう。

 賢明な読者ならすでにお気づきのことだと思うが、「時間と空間」の特権を人間が得ることができたのは、もちろん、火だけのおかげではない。火と、道具と、言葉の三つのおかげである。基本的には、この三つは切り離して考えられない。

 しかし、特に、火によって時間を得られたと強調しておきたい。

 人間は「時間」を大脳の聴覚野で捉えるという。

 火、時間、耳。

 人間の特徴を象徴的に表す、この三つの関係性は、この英雄ブランディングにおいて、これからも頻出するエッセンスなので、よくご記憶下されたい。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> ⑥人間と道具と
                   [1:理論編]

 前項で示したとおり、火は人間に「時間」を与えた。つまり、狩猟時間の延長、生活時間の延長、寿命の延長と言い換えることができるだろう。それは同時に「空間」という特権を得たことにもなる。時間的制約からの解放は、空間的制約からの解放をともなうからである。そして、人間がさらに広大な空間を領有することができるようになったのは、「道具」のおかげである。

 火の力によって、人間は強靱な生存力を手に入れたが、なかでも、火の加工力に気づいた人間はより大きな力を得ることができたはずである。武器、食器などに施した加工によって、他の集団よりも遠くへ移動でき、たくさんの食糧を確保できるわけである。

 食糧確保能力の強弱が組織形成のスピードと組織の結束力の強弱に直接的な関連があることは、現代人でも実体験として理解できることである。分け与える能力の強いリーダーには大きな組織が従属する。原始時代の男たちとまったく同様の体験を、我々現代ビジネスマンは日常経験していると言えよう。

tower_of_babel  さて、道具の発明と運用が、人間社会を形成していくのに重要なファクターであったことは明白である。火と道具を得たことで、人間の生活単位は、個もしくは小規模な家族から、複数の家族でなる組織的集団へと変化していったと考えられる。もちろん、「言葉」がそれに拍車をかけたことは、「旧約聖書・創世記」のバベルの塔のエピソードを紐解くまでもないだろう。

 誤解を恐れず端的に言えば、火は人間に時間をもたらし、道具は人間に空間をもたらしたと理解できる。空間とは、居住地域を意味し、また人間の共同社会のことをも指す。

 ところで、空間的拡張を手に入れた人間がそこからさらに手に入れたものがある。

 それは、である。もちろん、もともと人間には手と目があるのだが、管理すべき空間が広くなったことで、手と目の機能が飛躍的に向上したと考えられる。

 空間的自由を得たということは即ち、外敵から襲われるリスクが増えたということでもある。外敵への警戒心は、遠くまで見晴るかすことができる視野の拡張と視力の向上をもたらしたであろう。さらに、自分と自分が守るべき家族・組織からより遠い地点で、敵を仕留める必要性があるために、道具や火を運用する手の機能が向上したと考えられる。器用になったのだ。それまで、食糧の皮をむいたり、棒きれを握ったりする程度の使い方しかできなかった手に、様々な機能が付加されたはずである。道具の発明は、使用法の発明でもある。手の使い方、指の動かし方、腕の使い方の新規発見が行われたと考えられる。

 そのことを証明する図がある。

omunculus カナダの脳外科医ペンフィールドは、ヒトの大脳新皮質における「運動野・体性感覚野と体部位との対応関係」を図示した。例えば、舌で味わい「美味しい」と感じるのは、大脳でそう感じているのである。舌先が感じているのではない。舌先はあくまで情報収集の出先機関(器官)に過ぎない。つまり、大脳に舌の味覚に相当する部位があるのである。人間の五感のすべてが大脳のどこかに対応しているのである。それが左図「ホムンクルス」である。

 この図を見れば分かるように、人間の五感のうち大脳に占める割合が多いのが、口と手である。これは、食糧を確保することがいかに大切かを物語っている。食糧を確保するために、火と道具を使う「手」と、確保した食糧を体内に運ぶための「口」である。この二つの感覚が大きいおかげで、人間は食糧を確保することができるのである。

 さて、ホムンクルスでは、顔のなかで口がもっとも大きく描かれているが、目と耳も、他の体の部位に比較すると大きめに描かれている。

 前項で、人間は時間を聴覚野で感じると述べた。時間感覚と耳は密接な関係があるのだ。集中している時、どんな騒音があっても耳に入らない。そんなとき、たいていの場合、時間感覚が麻痺している。気がつけば数時間経っていたなどということがよくある。私の場合、この原稿を執筆している時がそういう時だ。また、音楽を聴きながらジョギングをしていると、交通事故に遭う確率が増えるらしい。音楽が聴覚野を独占しているため、近づいてくる自動車などの音を察知することができないのである。

 では、空間の場合はどうか。

 ご想像通り。人間は、空間を視覚野で感じる。空間認識能力というやつだ。これは目の機能である。

 数年前、『話を聞かない男、地図が読めない女―男脳・女脳が「謎」を解く』がベストセラーになったが、この本では、空間認識能力の男女差が脳科学的に述べられている。

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 狩猟を仕事としてきた男は、外敵から我が身と仲間を守るために、目の能力が女性に比して優れているらしい。しかも、目では見えない背後や物陰すらも察知しようとする空間認識能力や直感力が優れている。だから、自動車の車庫入れは男の方が巧いというのである。一方、人間同士の関係性を瞬時に察知する能力は女性が優れており、それは家庭と子どもを守る義務を負った女性ならではの能力であると述べている。

 以上のことから脳科学的に限定して言えば、女性が政治外交を行い、男性が戦争と生産活動を行う、古代日本の邪馬台国のような国造りが理想なのではないかと思うが、それは本論と直接関係ないので、あくまで余談に留めておこう。

 さて、以上のように、火と時間と耳の関係性と同様に、道具と空間と目の関係性について述べてみた。

 次項は、言葉について述べたい。言葉と密接な関係を持つ概念についても深く論じてみたいと思う。

 さらに、「火・時間・耳」「道具・空間・目」「言葉・?・?」。この三つのセットは、これから詳述していく英雄ブランディングのセオリーの核心部分となっていくことを、あらかじめご記憶願いたい。

 この三つの関係性を理解することが、マーケティングの基本なのである。そのことは、後々証明していくこととなる。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> 7.人間と言葉と
                   [1:理論編]

tower_of_babel_thumb 「旧約聖書」創世記十一章、「バベルの塔」のエピソードは、人間が言葉を得たことの重要性を物語っている。

 もともと人間は同じ一つの言葉を話していた。人々はれんがとアスファルトを用いて天まで届く塔をつくろうとした。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった・・・。

 また、「新約聖書」ヨハネ福音書第一章の冒頭には、「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉は神なり」とあり、「よろずのもの、これによりて成り」と続く。

 火・道具・言葉の三つは、人間とその他の動物とを区別する大きな溝である。この三つに軽重はない。どれか一つが欠けても人間の歴史は成り立たなかっただろうし、逆に、どれか一つが出現した時点で三つが揃う条件が整ったのだと思う。だから、なにゆえ、聖書が「言葉」のみを重んじるかと首をかしげたくなる。この三つが人間を人間たらしめていると論じていても良いはずであるのに、聖書は「言葉」を冒頭に掲げ、「言葉は神である」と定義している。(私はクリスチャンではないが、言葉に関する新約聖書の記述があまりにも有名なので例示した。おそらく、他の宗教でも言葉を最も大切に扱っているのではないかと思う)

 しかし、よくよく考えてみると、やはり言葉がなければ、人間は火も道具も、今のようには上手に自分たちのものに出来なかったに違いない、という結論に至る。

 例えば、ジェスチャーゲームをしてみると、言葉の大切さが身にしみる。両手で山型を作って、両手が交差するポイントから何かが吹き出しているジェスチャーをしても、それが、「山の頂から何かワケの分からないものが吹き出している。どうやら危険そうだ。早く逃げよう!」という警告が相手に伝わるかというと、どうも心もとない。

 そういう失敗体験を何万年も繰り返し、ようやく人間は、原初の言葉(らしきもの)を発声できるようになったのだろう。動物の鳴き声の模倣から始まったのかも知れない。

 以前、知人から面白い話を聞いたことがある。「地球上のどの言語においても、警告のための言葉は人間の声帯にとって、最も発音しやすく、発音の時間が短い」というのだ。

 他人に注意を喚起する際に用いる呼びかけ語は、たいていの場合、短くて撥音をともなう。日本語では「オイ!」、英語では「Hey!」など・・・。すべての言語について調べるわけにはいかないが、おそらくこの法則は正しいだろう。より遠くまで音が伝わる周波なのだろう。この点はもちろん、人間以外の動物も同じである。

 しかし、人間と動物が大きく異なる点がある。

 それは、人間が「警告音に留まることなく、その他の多様な言葉を持ったこと」である。

 自分と数少ない仲間の生命を守るためだけならば、警告音とその他のわずかな音で事足りるのである。「食べる事」「生命の危険から身を守る事」に関する音のパターンで、充分に種を守っていけるのである。

 しかし、ヒトだけが、それ以外の多様な発声パターンを開発していき、それを種のなかで共有していった。

 火・道具によって、長期化した狩猟時間・生活時間。広域化した縄張り(居住地域)。それにより増した危険性。

 そのような厳しい環境下において、自分を守るためには、まず自分の周りの家族・組織を守る必要性が出てくる。それも、他の動物よりも長い時間、他の動物よりも広い空間において。

 狭い縄張りのなかで、自分と家族の生命を守るだけで良い動物には火も道具も不要である。生命維持のみを至上目的として活動すれば良いからである。自分の爪牙と健脚のみで生きていけるのである。しかし、人間は時間と空間をより多く所有するがゆえに、自分の生命維持のためには、より多くの「他人の生命維持」を図らねばならないという、目的の「交差化・二元化」が起こったと考えられる。

 そして、この「交差性・二元性」をスムーズに媒介するために生まれたのが「情愛」であり、情愛を表すツールとしての「言葉」ではないか?

 交差性と二元性。一言で言うなれば、「互助本能」である。

 それ以外に、ヒトが言葉を生産し、共有していく目的を見つけることができない。互助本能など人間にはない、と逆に定義すると、言葉を生産する必要がなくなる。他の動物と同じで良いではないか、となる。

 もちろん、当のヒト本人は、「自分の生命を守るためには、自分を取り巻くヒト・モノなどの環境の維持に努めねばならない。そのためには、こういう場合はどんな言葉が良いだろうか?」と、逐一思考するわけではない。何万年、何十万年、何百万年という、気の遠くなるほどの時の中で、死と隣り合わせの失敗と成功を幾度も繰り返した挙げ句の果てに、刷り込まれた本能として人間に備わったのである。DNA情報になったというわけだ。これが、人間の生体組織を変化させていった。大脳を生み出したのである。

 もっとも誤解してならないのは、この考え方は、「人間は生まれつき善人である」という性善説とは主旨を異にする。あくまでも、ヒトが言葉を所有したワケを互助本能であると定義しているに過ぎない。人間以外の動物は互助本能を人間ほどは持っていない。究極の選択を迫られたとき、動物は自分自身を守るが、人間は自分を殺し、他人を生かすという方法を採りうるのである。これは、人間が多量に互助本能を持っていることの証である。もちろん、生後この本能を発揮せずに、ケモノと同じように、自分の生体生命の維持だけを目的に、他人を踏みにじる人間もいる。だから、性善説とも性悪説とも異なるのである。他の動物との違いを考えたときに、明らかなのは、人間だけが互助本能を発揮する機会を与えられたということを述べているに過ぎない。

 さて、「火」は「時間」と「耳」に関係がある。同様に、「道具」は「空間」「目(と手)」に関係がある

 この関係を「言葉」においても求めるならば、こうなる。

 「言葉」→「関係」「情愛」

 言葉は、ヒトとヒトの間に関係性を生み出した。互助という関係性である。そして、この関係性は長い人間の歴史の中で、互助という迂遠なプロセスそのものを殺ぎ落としていき、「情愛」へと変質したのである。だから、家族や友人を守りたいという感情を、我々は「互助本能の発露」とは呼ばない。単に、「好き」とか「愛情」という言葉で表現するのである。互助機能が情愛として本能化しているからである。

 その証拠に、現代では当たり前のヒューマニズムは前時代では通用しない。例えば、間引き、口減らし、老人遺棄、動物愛護、環境保護、近親間婚姻など。科学文化の発展によって、人間の世界観・死生観が徐々に変わっていき、互助本能がより洗練され、情愛の性質が広域化・深化したのである。(もちろん、その逆もありうる)

 ここで、冒頭の疑問の答えが解けるわけである。

 「宗教はなぜ、言葉を重要視するのか?」

 宗教は、自分を活かし、他人を活かす方法を説くものである。つまり、宗教の本質は互助なのである。互助を説くための最短の道は、言葉の大切さを説くことである。だから、宗教は「言葉が最初に存在した」と強調する。「言葉は神そのものだ」と主張し、「言葉が万物を生み出した」と定義するわけである。

 日本にも、「言霊(ことだま)」という思想がある。

 言葉が、「ヒトとヒト」「ヒトとモノ」「モノとモノ」の関係性を定義する。定義された「ヒト」と「モノ」は無機物から有機物へと変質する。有機化された言葉を我々は「概念」と呼ぶ。概念はただの音声ではない。無機的な音声としての言葉には「暖かみ」はない。しかし、有機的な概念は、それを口で話す人、それを文字で書く人、それを耳で聞く人に、映像と情感を抱かせる。「言葉としての体温」を持つのだ。

 この「概念の体温」を実感できる人間だけが、「憧れ」を正しく行動することができるのである。憧れを正しく行動することが、ブランディングの要諦であるから、経営という大テーマの入り口は、「人間とは何か」を考え尽くすことである。

 人間の本質は、人間以外の動物との比較によってより鮮明になるというわけで、これまで、人間と動物の違いについて述べてきた。このような迂遠な論証を行ってきた理由がお分かり頂けるものと思う。

 次回は、「頭が良い人間」とは何か定義したい。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> 8.初めて分かった! 「考える」の定義。
                   [1:理論編]

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 動物と人間の脳の働きの違いに注目することで、「頭の良い人間」の定義が明確になる。定義が明らかになれば、その方法もおのずと見つかるもの。すでに答えは提示した。この章のタイトルが示すとおり、「憧れると頭が良くなる」のだ。そして、この「憧れる」という動詞について正しい方法論を導き出すのが、英雄ブランディングの意義である。

 さて、人間の脳の働き、とりわけ、火を支配したこと、道具を生み出したこと、そして、言葉を生み出したこと。この三つの働きについて述べてきた。そこで分かったのは、「人間は、時間・空間・関係(つながり)について、他の動物とは比べようもならないほど進歩的である」ということだ。この進歩性が、動物と人間とを区別する基準であり、人間が万物の霊長と言われるゆえんである。

 以上のことを図解してみた。

 animal_brain

 動物は、「食べて生きること」そのものが生の目的である。そのために、それを阻害するものから身を守る能力が発達している。暗闇でも目が利き、何キロも離れた場所の物音を聞き分け、外敵の襲来を察知する感覚が研ぎ澄まされている。五感のみならず、六感までも総動員して情報を入手(入力)する。そして、すべて筋肉運動として出力される。生存本能を挟んで、入出力が直結しているというわけだ。

 一方、人間はどうだろう?

human_brain 人間は動物とは異なり、第六感が働く余地はきわめて少ない。ほとんどの人間は五感しか使えない。五感では感じ取れないものを感じ取るアンテナは動物に比べると貧弱である。だから、大自然のなかでは人間は動物のかっこうの餌になるのである。但し、人間が動物を支配することができる場合がある。それは、人間が組織集団を形成するときである。この図を見れば分かるように、人間は大脳新皮質の獲得と同時に、互助本能を獲得した。人間は第六感を研ぎ澄ます代わりに、人間同士が背中合わせになって助け合う仕組みを創造したのである。つまり、人間社会というものである。そして、この人間社会を大きくし質を高めるために、人間は「話す」「書く(描く)」「働く」という三つの方法を編み出した。動物が我が身と身近な仲間を守るための筋肉運動しかできないのに比べ、人間は道具を作ったり、建物を建てたり、できる。また、言葉や図画を駆使して概念というものを生産できる。もちろん、それらもすべて筋肉運動なのだが、その効果において動物よりもより多く、より長く、そして、より広範囲の仲間を助けることができる。「時間」と「空間」を大きく超えて、仲間と「関係」を結ぶことができるのである。

 そのため、脳の中でも大脳新皮質はもっとも表面積が大きく作られており、人間が社会生活を営む上で重要な機能はほとんどこの大脳において処理される。大脳はしばしば「スーパーコンピュータ」と喩えられるが、重要なのは、「人間は複雑」ということではなく、「生存本能と互助本能のバランスを取りながら演算する」ということだ。チーターの足が速いのは生存本能を抑制しようとする働きがないからである。本能のままに筋肉を動かせるように作られている。一方、人間は動物に比べると愚鈍である。それは、生存本能と互助本能との間に、自他ともに納得のいくバランスを保とうとするからである。その「間(ま)」が人間の筋肉運動の鈍さにつながっている。

 しかし、それが「考える」ということである。

 ここで思い起こされる有名な言葉がある。人間と社会に関する研究がさかんに行われたルネサンス時代、徴税官を父にもつフランスの天才数学者が書いた言葉である。

「人間はひとくきの葦にすぎぬ。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」

 パスカルは、『パンセ』のなかでこうも言っている。

「人間の尊厳のすべては、考えることのなかにある」

「考えが、人間の偉大さをつくる」

「すべての人間は幸福を求めている。これには例外がない。その手段がいかに異なっていようとも、みなこの目的に向かっている。意志は、この目的に向かってでなければ、一歩も前へ進まない。これはあらゆる人間の、みずから首をくくろうとする人に致るまでの、あらゆる行為の動機である」

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と言った。ラッセルは「人間は半ば社会的、半ば孤独な存在だ」と言い、デカルトは「心を持った機械だ」と言った。「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と言う人があるかと思えば、「ホモ・ファベル(作る人)」と言う人あり。「生産する動物」とも言われ、「道具を使う動物」とも言われる。一般には(学問的には)、「霊長目ヒト科に属するホ乳類、ホモ・サピエンス(知恵ある人)」と言われる。

 表現は様々だが、先賢もみな、「考える」ということに重きを置いたのである。上図で、そのことがお分かり頂けたものと思う。

 ところで、自分がどんな人間か、過不足なく他人に理解してもらうことが、幸福感の最たるものである。(と、少なくとも私は考える。お金を幸福の中心に据えることが如何に馬鹿らしいか、私と同年代のIT社長が見事に実証してくれたことは、とても有り難いことだ!)

 そのためには、「人間とは何か。考えるとは何か。いま自分は何を考えたのか。それゆえこのような筋肉運動を起こしたのだ」という関係性を象徴する「何か」を話すか、書く(描く)か、体現せねばならない。それが、行為とか行動の本質である。

 陽明学では行動を尊ぶ。しかし、考えもせずに行動に突っ走ることを「浅履」と言ってたしなめる。真(まこと)の実践とは、「しっかり考え、行動する」ということである。きわめて当たり前のことだが・・・。

 そして、繰り返しになるが、「考える」という行為には人間だけに与えられた気の遠くなるような仕組みが眠っているのである。この天与の能力を駆使することが、人間が生きるということであり、生活の根本である。

 さて、次回からは「考えることを上手にできる人」、つまり「賢い人・幸せな人」の定義を解き明かしてみたいと思う。そこから、マーケティングの基礎も見えてくるし、成功哲学に関しても深い理解が得られるはずだ。そして、何よりも、「正しく憧れるだけで成功できる」という仕組みの初歩が理解できるはずである。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> 9.「頭が良い」に関する真説
                   [1:理論編]

 さて、「頭が良い人」という概念も様々な見解が分かれるところである。古今、才能論は尽きない。しかし、これまで述べた人間観を土台にすれば、「頭が良い」ということがどういうことか容易に導き出せる。

 ここで再び最初のキーワードが重要になってくることが分かるのである。

 「1.交差点の生きもの、人間。」の最後で、このように定義した。

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 このことからも分かるように、人間は、肉体だけでは人間たり得ないのである。過去と未来のはざま、人と人との間で生活することで、はじめて人間として機能するのである。人間は、時間の縦軸、社会の横軸の交差点の真ん中に立って生活している。
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 人間は、「社会空間」と「時の流れ」が交差する「現在」という点を生きている。そして、その点の上で「関係」を結ぶ。このことは、人間の脳の特異性からも説明できることは、前項で示した図でも明らかである。

human_brain

 なぜ、人間は動物に比べて、第六感が鈍いのか? それは、助け合うことで互いを守ることができるためである。なぜ道具を作ることができるのか? それは、仲間(社会)を助けることで自己の保全を図ることができることを知っているからだ。なぜ言葉を生み出し、自由に操ることができるのか? それは、より広い社会とより濃厚な関係性を築くことが自己防衛本能に叶っていることを知っているからだ。

 以上のことから、人間としての「頭の良さ」は以下のように定義づけられるのではないか?

●「人を助ける」ことが生きることの中心にあること

社会奉仕という言葉や「世のため人のため」という標語がただの記号ではなく、その人の人生観の基調色となっている。

●社会に対する関心が強いこと

アスリートやレーサーが持っている空間認識能力を身体感覚的な能力だとすれば、ここでいう「社会への関心」は、社会感覚的な空間認識能力だと言える。

●時間に対する関心が強いこと

ただの懐古主義ではない「歴史への探求心」と、歴史から得られる知性・感性を未来設計へと結実させようとする意志のこと。『論語』の温故知新のことである。

●人間に対する関心が強いこと

上記の「人助け精神」「空間認識能力」「時間への意志」は、具体的には人間への関心として表現される。働くこと、話すこと、書くことを中心とする筋肉運動と概念生産は、人間への関心範囲に左右される。

 ノブレス・オブリージュという言葉は、「恵まれた立場の人はそれ相応の社会的義務を負うべきという考え方」と一般的に解釈されるが、私はこの四大条件こそがノブレス・オブリージュの本旨であると思う。

 また、この四大条件から人間の様々な能力を俯瞰的に眺めてみれば、一般的な才能論がいかに底の浅いものか分かる。

 本をたくさん読んでいること、事務処理能力に長けていること、言葉を操る技術に長けていること、ボキャブラリが多いこと、決断力に富んでいること・・・。

 優れた知性・感性の定義は様々だが、それらはすべて、「頭の良さ」の構成要件の一つではあるが、本質そのものではない。

 すべて上記の四条件へと集約されるのでなければ、ただの技能的特徴に過ぎない。

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【第1章 憧れることの効用】
(1)憧れると頭が良くなる
 >>> 10.憧れると頭が良くなる
                   [1:理論編]

 「憧れの人物は?」

 これまで機会があれば会う人会う人にこの質問をしてきた。その答えには大別して3つのパターンがあることに気づいた。

A:矢田亜希子! だって同性からも異性からも好かれてる。とにかくステキだと思うわ!

B:やっぱりイチローかなぁ~。同じ年であんだけの活躍できてあの年収!! 男なら憧れるでしょう?

C:事業家なら坂本龍馬。世間では彼の自由奔放な発想が良いとか言うけど、僕は、あの「物事を大掴みする感性」は経営者には必要だと思うね。

 これまで、人間というものについて、頭が良いということについて、きわめて偏見的な私見を展開してきた。我ながら理屈っぽい理論だと思う。しかし、それもこれも、「憧れる」という概念の誤解を解きたいためだ。

 私が定義している「憧れ」とは想念ではない。行動である。「憧れる」とは、「憧れの念を抱く」という意味ではなく、「憧れを行動化する」という意味であると考えている。例えば、上記の答えのうちAとBは「憧れ」ではない。Aは「羨望」であり、Bは「諦観を含んだ軽い嫉妬」である。

 A,BとCの違いを具体的に見てみよう。

 Aと答えた人は、外見と知名度を羨んでいるだけである。子どもがアニメヒーローに夢中になる感覚とさほど変わらない。無邪気である。Bはネガティブである。言下に、「ワタシは不遇だ。イチローは恵まれている」といった拗(す)ねがある。大人になって色んな事柄を学んでいくと無邪気さが無くなっていく。「どうせワタシにはできないに違いない。原因はワタシの外にあったに違いない。ワタシは悪くない。運が悪かっただけだ」と思いこむのである。こういう心を「陰妬」と言う。

 一方、Cの答えは、A,Bと大きく異なる。

 それは、坂本龍馬という人物の通俗的イメージではなく、人間的特徴に関して独自の視点を持っているということだ。「坂本龍馬は、物事を大掴みする感性を持っていた」と判断する根拠を持っているということである。さらに、「その感性が経営者には欠かせない」と判断していることも重要である。経営者の能力に関する自説を持っていることが分かる。

 このことから、Cの人は、「ワタシは経営者、もしくはそれを目指す人間であり、ワタシが理想とする経営者になるには、坂本龍馬のような感性を身につける必要がある」と考えていることが想像できる。

 つまり、「ギャップを分析している」ということである。ギャップが認識できるということは、その差を埋める方法を知っているということである。方法は戦略とも言い換えることができる。行動はギャップの分析から始まるのである。

 ギャップ分析 → 戦略 → 行動

 さて、昨年、ある会社のオーナーに請われて社員さんを対象にしたセルフブランディング講習を実施させて頂いたときも、この質問をしてみた。オーナーさんを含めて10名。その時も、面白いことにこのパターンに分かれた。さらに、その人物の特徴をどこまで知っていいるかどうかを知るためにワークシートを作り、書き込んで貰った。

 その結果、オーナー以外の社員さんは、親や上司や女優などを憧れの人として掲げる傾向が強かった。またその特徴は、見た目や誰でも知っている業績などに終始していた。「優しい」「頭が良い」「キレイ」などといった一般的な特徴を箇条書き的に挙げるだけであった。

 一方、オーナーは、同業種の先輩を掲げ、深く交際していないと知り得ないような情報を事細かく網羅していた。そして、そのすべてについて自分との差を認識していた。だから、ワークシートには所狭しと文字が書いてあり、その人物のことを想像しながら一所懸命書いたことが一目瞭然だった。

 このことから、憧れるという概念を正しく理解し行動化する習慣のある人は、戦略について考えねばならない立場に立つ確率が高い、つまりリーダーとしての道を歩む傾向があるということが分かる。

 ポジティブシンキングと上昇志向が、リーダーシップの要件であることは誰でも了解済みのことであるが、実は「憧れる」ということがとても重要な価値観であることはあまり気づいていない。しかし、憧れるという概念一つで、リーダーの座にある人とそうでない人の違いは明確に出るのである。

 さて、憧れを正しく行動するためには一定の思考プロセスが必要である。

 ギャップを分析しなければならないのだから、「自分」というものに関する豊富な知識と感性が必要となるのは言うまでもない。交差点の理論から言えば、自分を知るためには、時間軸と社会軸、そしてそれが交わる点を中心とする円(他人との関わり)をよく理解するということである。つまり、

 ●歴史から学ぶ謙虚さ

 ●問題の原因を環境や他人に転嫁しない克己心

 ●未来を想像する楽観性

 ●情報源を差別しない節操なさ

 ●目に見えないものを忌避しない感性

 ●一時の気の迷いや私情に走らない冷静さ

 ●モノの仕組み、社会の仕組みに対する知的好奇心

 ●言葉遣いや言葉そのものに対する関心

 ●礼節感覚

 ●人間科学と哲学に対するニュートラルなポジション

 これらをバランス良く陶冶する思考習慣・行動習慣が常態化していることが必要となる。

 もう一度、この図を見て頂きたい。その上で、上記の項目を見て頂きたい。

human_brain

 「自己を知る」ことが正しい「憧れ」への入り口であるとすれば、「憧れる」ということは頭を良くする道そのものであるということが分かるのである。

 憧れるという行動はこの図が示す「頭の良さ」の条件をすべて備えていることが分かるだろう。

さかもと教授の【ポイント・コラム】

(一)
賢さの定義は、「人助け精神」「社会的空間認識能力」「時間への意志」「人間への関心」の4つの条件から成るのぢゃ!

(二)
人間は交差点の生き物なのぢゃ!

(三)
憧れることは、羨望や嫉妬とは大きく異なるぞ! 憧れるとは、手の届かない理想像を羨望と嫉妬の入り交じった感情でぼんやりと想像することではないぞ! 明確に、「自分とはここが違う。こうすれば私ももっと・・・」と追いつけ、追い越せのイメージ戦略を練ることぢゃ! もっと動的・攻撃的な思考スタイル・行動指針なのぢゃ!

(四)
憧れを正しく行動習慣化するということは、上記の4つの条件で挙げた性質を高めていくということぢゃ!

(五)
憧れると賢くなる! 古今東西の成功者を見てみい! みな楽観的でポジティブで、想像力が豊富じゃろう?それに第六感も優れておる。常人では見えないものが見えるという人もおるぞ。あのような賢さは、憧れることの習慣化によって得られるのぢゃ!

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【第1章 憧れることの効用】
(2)憧れると心が美しくなる
 >>> 1.三つの心で人は生きる
                   [1:理論編]

  人間は複雑な生物である。cell

 その複雑さの正体は、前項で述べてきた「互助本能」である。人間同士互いに協力しあってコミュニティを守り、その結果、自分の生存本能を満たす。これを「目的の二元化・交差化」と呼んだ。

  しかし、この互助本能こそが、人間を他の動物よりも上位に位置づけているものである。これがなければ、人間もただのケモノである。

 さて、人間の脳は複雑だが、それ以上に複雑なのが心である。

 human_brain

 この図から導き出される当然の帰結として、人間が自己の生命を維持する動機は三つ考えられる。

 一つ目は、動物すべてが持っている本能。生存本能である。

 二つ目は、人間だけが持ち得た生存本能をより効果的に満たす本能。つまり、互助本能である。

 そして、三つ目である。

 三つ目はこの図には表出していない。

 二つ目の互助本能の裏面とも言うべき本能。つまり、復讐本能である。

 動物はきわめて原始的な方法でしか自己の個体を守ることができない。おのれの牙と爪しか自分を守る方法がない。一方、人間は火・道具・言葉によって社会を作り、その社会の仕組みによって社会そのものを守る。社会の一員である自己を守る。これが、人間だけが持っている文明文化というものであろう。

 しかし、その反面、動物にはない苦しみを背負ったとも言える。

 それは、「自己と他人を比べて嫉妬する心」である。

 他人を助けることで自分を守る「互助本能」は、コインの表でしかないのである。裏には、「報いられない不満」「他人からの施しを求める依存心」「他人の不幸を喜ぶ嫉妬心」がひそむ。

 動物は互助本能を持たないか、もしくは人間よりもより少なくしか持っていないため、他の種や個体を嫉妬するということがない。動物が自己の爪牙を使って他の個体を倒すのは、あくまでも自己防衛か食糧獲得活動である。非常にシンプルである。

 しかし、人間はいかに食べ物が足りていても、心が満たされない時には他人を殺すことがある。純粋な生存本能によらずして、自分以外の個体を傷つけるのは人間だけなのだ。

 皮肉なことに、互助本能という尊い仕組みは、その本能が満たされない時には、他人を破壊することを選択してしまうという危険性を孕んでいるのである。

 「心を美しくする」というテーマは、互助本能のこの二面性を解明することから始めたいと思う。

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【第1章 憧れることの効用】
(2)憧れると心が美しくなる
 >>> 2.互助本能と復讐本能(コインの表と裏)
                   [1:理論編]

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 生まれた時には、我々人間は武器も利器も与えられていない。概念生産力と労働力によって、生まれた後で生み出していくか、獲得していく。

 動物は生来、爪と牙を持っている。食糧を獲得する武器として、または自衛のための利器として、である。

 その代わり、動物には嫉妬心がない(もしくは、きわめて少ない)。

 脳がそのように発達しなかったからだが、ざっくり言えば、神様が動物に嫉妬心を植え付けなかった。強力な武器を持ち、しかも嫉妬心を持っているとしたら手に負えないからだ。

 しかし、人間は互助本能と一緒に嫉妬心や復讐本能まで与えられてしまった。

 火・道具・言葉によって、時間と空間と関係性を永遠に我が手中に収めることができたと同時に、それらをみずからの手で壊してしまう可能性をも手に入れてしまったと言える。

 人の為に良かれと思う心は、それが報いられない場合、時に嫌悪の念を伴って潜在意識に刷り込まれる。相手を嫌いになる。ひどい場合は、身体表現として攻撃することもある。

 「美しい心」の定義は様々だが、これまでこの理論編で述べてきた考え方からいけば、こうなるだろう。

 まず、この図を見て頂きたい。

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 これは、ある企業スタッフの方から「夢の描き方がわからない」と質問されたときに使った講習レジュメの一部である。

 夢を描くという精神行為には、ある一定の理想的なプロセスがあるというのが私のセオリーだ。

 やみくもに「ああなりたい」「こうしたい」と願うのは、「夢を描く」ことではなく、ただの羨望である場合が多いものだ。

 そういう考えから、その企業スタッフの方々に、「夢を描く前にスタンスを決めよう!」と提案した。その時に提示したのが、この図である。

 ゴルフでも、理想的なスイングを行うためには、理想的な立位(精神的・身体的なスタンス)というものがある。これが狂うとすべて狂う。(いまだに100を切れない私は狂いっぱなしである(笑)

 夢を描くことはゴルフで言えばテイクバックである。「夢を描くためのスタンス」が間違っていれば、打球はとんでもない方向へ飛んで行くに違いない。

 図では、「義侠心」と書いているが、これは「互助本能」のことであると考えて良い。「私欲」は「食糧獲得本能」。「復讐心」は復讐本能。

 人間は他の動物と比べると生来優れた機能を与えられているが、同時に容易に低きに流される性質も持っている。自ら律さなければ、徐々に(もしくは急激に)ケモノへと退化してしまう生き物である。

 人間たるもの、私欲と復讐心ではなく、義侠心(互助本能)で自分の人生を切り開いていきたいものだ。

 しかし、そう簡単にいけば誰も悩まない。それが理想的だとは思っていても、低きに流れていってしまうものだ。

 もちろん、「良い料理を食べて、良い車に乗って・・・」式で、夢を描くことも可能だ。

 しかし、腹が減れば飯を食うのは、ケモノでも人間でも同じ事である。食べるものが高価か、量が多いかの違いである。

 「彼らは食べるために生きるが、私は生きるために食べる」というソクラテスの格言は的を射ていると言えよう。

 但し、この式で夢を描くことのないように自分を律するのは、意外と簡単である。この式で成功した人は古今東西一人も存在していないことを知れば、わざわざこの式を採用する愚を誰が冒すだろう。そんな人は文字通り、愚者である。

 一方、「あいつをいつかギャフンと言わせてやる・・・」式で、夢を描くことも可能である。

 しかし、この式はケモノ以下である。動物が他の個体を攻撃するのは何も憎いからではない。食糧獲得行為なのである。しかし、人間だけが復讐・嫉妬によって突き動かされる。

 もちろん、ある現象のわずかな起爆剤としてなら、復讐心が大きな意味を成すこともあるだろう。

 例えば、WBCで韓国に勝った日本代表チームは二度の敗戦によって復讐心を燃やした。「二度も同じチームに負けるなんて」という我が身への不甲斐なさと、「日本の力を見せつけてやる」という復讐心がプラスに働いた、素晴らしい例だ。

 しかし、イチローたちアスリートは、誰かに報復したくて野球の道を究めているわけではない。彼らにとって、夢を描くことと復讐心はあまり深い関係を持っていない。

 だから、復讐的姿勢の発露として夢を描くと、必ず事破れる。これは、歴史が証明していることである。

 私は、自分と他人の関係性に互助本能が最大限発揮されるように仕組んでいくのが、夢を描くスタンスの基本だと考えている。

 「世のため人のため」というやつだ。そのスタンスなしに、夢などいくら書いても意味がない。自分以外の人のためにならない夢など、夢を描いていないのと同じである。

 しかし、忘れてはならないのは、人を助けようという心を強くするということは、見えないところで、人を恨む心をも大きく育てる可能性もあることだ。

 飯のために夢を描いた成功者はかつていなかったが、復讐を胸に夢を描いた成功者は何人もいるのだ。

 我々後世の人間は、その人たちの成功事例を学ぶことはできるが、成功動機と成功後の本心まではのぞき見ることができないのである。

 だから、歴史を学ぶことが大事になってくるのである。

 

 「あの偉人はなぜ成功したのか?」

 「どうやって、その成功を保って死ねたのか?」

 「なぜ若い頃はあんなにも立派にやれたのに、老いて身を崩したのか?」

 そういった問いの答えは、その偉人の立場にシンクロしようとする姿勢を持たないと得られるものではない。

 心の問題に取り組むには、同時代を生きる他人の心、そしてすでに死んでしまった過去の人間の心について思いを致すということでもある。

 心の修養に歴史を勉強することが欠かせないのは、そういうワケである。

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[1:理論編]の概要はこちら

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