歴史から学ぶ[プライベートブランド]の作り方

英雄・偉人のブランディング秘策

例えば、坂本龍馬のような事業家になれる方法?!


 [2:実践編 英雄・偉人のブランディング秘策]
 [2:実践編]のアウトライン

[2:実践編 英雄・偉人のブランディング秘策] では、以下のようなテーマを準備している。

1.英雄は憧れる・・・漢の高祖・劉邦
2.英雄はなりきる・・・小村寿太郎
3.英雄は真似する・・・坂本龍馬
4.英雄は盗む・・・始皇帝・韓非子
5.英雄は改良する・・・秋山真之
6.英雄は名前を付ける・・・始皇帝
7.英雄は広げる・・・王陽明
8.英雄はこじつける・・・伊達政宗
9.英雄は狭める・・・宮本武蔵
10.英雄は絞る・・・ジャンヌ・ダルク
11.英雄は素数化する・・・王陽明
12.英雄はわき目をふらない・・・イエス・キリスト
13.英雄は画を描く・・・坂本龍馬・土方歳三
14.英雄は単純化する・・・児玉源太郎・クロパトキン
15.英雄は幹を作る・・・坂本龍馬
16.英雄は枝葉を茂らせる・・・坂本龍馬
17.英雄は実らせる・・・武市半平太・坂本龍馬
18.英雄はモデルを作る・・・織田信長
19.英雄は演じる・・・曹操・豊臣秀吉
20.英雄は画策する・・・織田信長
21.英雄は価値を設計する・・・坂本龍馬
22.英雄は具象化する・・・坂本龍馬
23.英雄は視覚化する・・・大久保利通・岩倉具視
24.英雄は構築する・・・未定
25.英雄は破壊する・・・未定
26.英雄は横に並ばない・・・未定
27.英雄は主張する・・・吉田松陰
28.英雄は右脳を使う・・・未定
29.英雄は師事する・・・坂本龍馬・河井継之助
30.英雄は約束する・・・未定
31.英雄は改める・・・劉邦
32.英雄は変説する・・・坂本龍馬
33.英雄は思いこまない・・・未定
34.英雄は転用する・・・未定
35.英雄は俯瞰する・・・未定
36.英雄は併行する・・・未定
37.英雄はたとえる・・・イエス・キリスト



このように、英雄たちが英雄と称されるゆえんの所を、今のところ、37個抽出してみた。これも、もしかすると増えるかも知れない。また、坂本龍馬のように、一人の英雄がいくつもの特徴を示すこともある。毎日の気づきの中で、適宜に追加・補足しつつ、更新していく。

「1:英雄は憧れる・・・漢の高祖・劉邦」の項では、彼が「憧れる」ことをいかに真剣に実践したか。様々な視点から読み解いていこうと思う。

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(1)英雄は対話する
恩田木工の場合
                   [2:実践編]

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rokumonsen
 夏の陣で、大阪方について討ち死にした真田幸村は有名である。その幸村の兄、信之は徳川方についたので、信州上田から松代へ、4万石加増のうえ、移封された。

 信之を初代藩主とする信州松代藩六代・幸弘のころ、幕府から命ぜられる公共事業や洪水の影響で、藩財政は窮乏していた。藩士の俸禄や知行が削られる「半知借上」が当たり前になり、領民からの年貢も減る一方。

 給料は下がる、ボーナスはなくなる、マイホームも、マイカーも手放す。いつの時代も、サラリーマンは辛い。

 当然の結果として、賄賂が横行する。経済が破綻すると倫理観も薄れる。これも、現代と同じである。

ondamoku さて、その頃、わずか30歳の末席家老が財政改革担当者として抜擢される。恩田木工(おんだ・もく)という人物である。

 恩田は藩内に徹底的な質素倹約を命ずる一方、妻には離縁、子には勘当、家臣には解雇を申しつけた。

 家族と家臣が動揺して反問してくる。そこでこう答えた。

「藩内の財政を立て直す大役を仰せつかった以上、私自身は絶対に贅沢はしない。嘘もつかない。私がこれを守らなければ、皆にそれを強いることもできまい。しかるに、お前たちはこれからも、贅沢を求めるだろう。嘘もつくだろう。だから縁を切るのだ!」

 主人の覚悟を知った家族・家臣一同、贅沢をしないこと、嘘をつかないことを誓った。恩田家ではそれから毎食、一汁一飯を続けたという。

 これを知った藩士たちの動揺は想像に難くない。若造の末席家老が急に抜擢されても、大したことはないと高をくくっていたのに・・・。
 賄賂を取っていた汚職藩士などは戦々恐々としたに違いない。「きっと切腹を申しつけられる。いや打ち首か」と、震えただろう。

 ある日、藩主・幸弘が恩田の報告を聞いて怒った。

 「そのような貪官汚吏はみな処罰してしまえ!」

 しかし、恩田は幸弘にこう言った。

 「みなやりたくてやったのではありません。衣食足りて礼節を知ると申します。うち続く災難でみなそれなりに苦しんでいるのです。人間、そう簡単に悪事など働けるものではございません。生活のためにやむなく悪事を働いたに過ぎません。生活のために悪事を働く知恵があるなら、きっと良い働きをすることもできるに違いありません。ですから、彼らを一旦、私の配下にさせて下さい。きっと変えてみせますから・・・」

 「お咎めなし」の処置を知った藩士たち。恩田の徳に感じ入るとともに、自分の不明を恥じ、役目を真面目に果たすようになった。領民へのゆすり・タカリをやめ、領民からの租税の洗納(翌年分の年貢を前もって徴収すること)を廃止。領民の信頼を取り付ける一方で、すでに徴収した年貢を返還しないことを領民に了解させた。

 それまで常態化していた「上から下へ」のお役所目線を払拭して、領民と対等の立場で対話する「双方向コミュニケーションの視点」へと一気に転換したのである。

 それ以降、徐々に財政は改善されていった。

 この恩田木工の姿勢は、まさにマーケティングの肝である。

 ポイントは3つ。「急がない」「人」「対話」である。

 こちらの負債を消すために、あちらで借入を起こしたり、ポッと出の新規事業に手を出したりして、結果、負債を膨らませてしまう社長がいる。自分は会社の経費で建てた一戸建てとベンツ(ベンツが悪いというわけじゃありませんよ)に乗っているのに、コピー用紙を節約しろ、休日返上で働けと命ずるばかり。

 資金繰り状態に焦ってしまって、大事なことを見落とすのである。資金繰りが悪化したのは、様々な状況が複雑に絡み合ってのことである。一部の怠慢社員を叱咤しても、微々たるコストカットをしても、儲け話に乗ってみても、こんがらがったひもの固まりは簡単には解けない。だんご結びが何十個もできているひもを無理矢理引っ張っても、余計固くなってしまうだけだ。

 焦らず、ゆったりとした気持ちで何が大事かを見きわめるしかないのだ。

 そして、その「大事なこと」の真ん中には、つねに「人」と「対話」の問題が横たわっている。

 それまで資金繰りがうまく行っていたのも、だんだん悪くなってきたのも、すべて社員同士の対話、会社と顧客との対話、銀行や仕入れ先などの関係者との対話が鍵を握っていたはずである。

 その対話の積み重ねから、組織の持っている暖かみとか、プロが持っている独特の誇りとかが滲み出ていたのである。それが相手の感情の中で、「信頼」として認識されていたのである。だから、商品が売れた、売上が上がっていたのである。

 対話の積み重ねが少なくなればなるほど、当然、相手の心に宿っている「信頼」は薄れる。それが売上不振となり、相対的なコスト増を引き起こし、財政全体に不具合をきたす。銀行も信用しなくなる。借入を起こせなくなる。

 対話をなおざりにしているから、新規事業計画書などまともに書けないし、書けても、相手に伝わらない。協力者が集まらないのである。

 恩田木工の取った戦略は、それは巨細となく研究してみないと分からないが、おそらく大きく区分すれば3つほどに過ぎないのではないだろうか?

 人材の「人財」化。対話システムの確立。嘘の廃止(内部牽制システムの確立)。

「自ら腹をかっさばく精神訓練を受け、恥の文化を持っていた武士だからこそ可能だった」と言ってしまえばそれまでだが、「人」と「対話」の問題にじっくり光を当てれば、たいていの問題は氷解するのではないか?

 恩田木工の事例は、そのことを我々に教えてくれる。


英雄偉人のブランディング秘策(メソッド) その一、

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
英雄は対話する。対話の仕組みを作る。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

組織におけるリスクの源泉は、すべて「人」と「対話」に起因していると言って良い!

具体的に誰と誰の、どことどこの対話が、どのように目詰まりしているかを調べてみるのじゃ!

また、社内外において「言葉」を見直すのじゃ!

どこにも真似できないサービスが売りなのに、「いやいや、うちはただの●●屋ですよ!」と自己紹介しているような不届き者がいないか調べてみるのじゃ!

とはいえ、その者を怒るのではなく、なぜ、そのような言葉の幼稚化が起こったのかを調べるのじゃ!

いずれ、「修養編:英雄ブランディングのインストール法」にてワークシート化します。

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(2)英雄は憧れる
漢の高祖・劉邦の場合
                   [2:実践編]

項羽と劉邦〈中〉 朱元璋を助けて、明(1368~1644年)の建国に尽くした李善長は、朱元璋の家臣になるおり、こう言ったとされる。

 「劉邦のごとくすれば、天下はあなたのものになる」

 中国史上最悪の皇帝として名高い始皇帝に対して、漢を建国した劉邦は今でも人気のある人物だ。東アジア人にとっては英雄の理想型であろう。

 彼の英雄性を示すエピソードはたくさんあるのだが、中には後世の人たちが意図的に作った挿話なども多く、物語を面白くするには好都合かも知れないが、英雄ブランディングの趣旨から考えると適切ではないものも多い。英雄偉人の戦略発想や人間性の特徴に光を当てることで、成功者の条件を浮かび上がらせ、それを自分流に翻訳することが英雄ブランディングの本旨である。そこから考えると、劉邦が我々に教えてくれる最大の教訓は、「憧れる力」についてである。

 ところで、劉邦の物語を読んだことのある方ならこのような印象を持ったことは無いだろうか?

 「ライバルの項羽を凌ぐ勢いがつけばつくほど魅力が無くなる人物」

 少なくとも私はそういう印象を持っている。その点、豊臣秀吉とそっくりである。権力を握れば握るほど英雄としての魅力が減っていくのである。一方、織田信長や始皇帝は権力を握れば握るほど魅力が増す。好奇心をそそられるポイントである。

 そういうわけで、劉邦の英雄性が最も輝いていた時期は、天下に志を持った時だろうと思う。逆に、その後天下人に近づくにつれて彼よりも、彼の家臣たちの魅力が増していく。それこそが劉邦が天下を取れたゆえんでもあるから、一概に、個人的魅力ひとつでは論じられないのだが・・・。

 彼が天下に志を持った時期をいつと定めるか、議論が分かれるところであろうが、私は始皇帝の行幸をわが目で見た時であろうと思う。

 咸陽で夫役についていた際、彼は行幸にでかける始皇帝の姿を見て、このように呟いた。

 「大丈夫当如此也」

 (大丈夫、まさにかくのごとくあるべきなり)

 「男たるもの、こうでなくてはいかんなぁ~」というほどの意味である。

 一方、項羽は始皇帝を見て、「彼可取而代也(彼、取って代わるべきなり):俺があいつに取って代わってやる!」と息巻いたとされる。この二つのエピソードは二人の英雄の性格をとらえたものとしてしばしば対照的に論じられる。信長・秀吉・家康の「ホトトギス」論とよく似ている。

 しかし、私は劉邦の呟きにこそ、彼の前半生の成功の秘訣を見ることができると思う。

 この呟きとその後の彼の生き方には、ブランディングの成功要件である「憧れ」が見事に含まれている。

 貧しい農家の次男坊として生まれた彼は、いつも街のゴロツキとつるんで酒を飲んだり、女をたぶらかしたり・・・。しかし、街の長老たちは決して彼らを疎ましく思っていたわけではない。いわゆる「侠の人」だったと言われている。侠とは、日ごろは働きもせずゴロゴロして時に悪事を働きもするが、基本的には弱者のために自分の腕っぷしを恃む無頼のことである。武侠などということもある。街からすれば必要悪なのだ。盗賊などから街を守ってくれたり、冠婚葬祭には仲間総出で働いてくれる。その代わり、タダ酒・タダ飯は許す。そういう集団の頭目、それが劉邦だった。

 彼が何歳の頃に始皇帝の姿を見て、「おとこ(漢)とはかくあるべし!」と思ったのかは定かではないが、この呟きと彼の武侠生活はシンクロする。

 彼は、始皇帝の姿を男の条件と信じ、つねにそれをイメージした。何をするのにも、理想的な男の偶像を右脳で描き、心を満たした。その夢想に浸っているとき、彼の心は完全にストレスから解き放たれた。ストレスフリーな心は、前頭葉から不可思議な空気を放出するという。「眉間に力がある」という言葉があるように、職も持たない劉邦の眉間には何故か不思議な力があったに違いない。ヨーガで言うところの「第7のチャクラ」が開いていたのだ。プロアスリートやアーティストが最高のパフォーマンスを行うとき、前頭葉に大きな反応が起こることは、脳科学的にも実証されていることだ。

 劉邦も右脳に焼き付いたイメージを毎日毎日何度も反芻し、完全に自分独自のイメージとして独占することに成功した。そして、イメージしたとおりの人物をあらゆる機会を通して演じていった。俳優のように意識的に演じたというよりも、自分も気づかない内に右脳のイメージによって体が動いていたという方が近いだろう。

 我々もそういったことは経験する。視覚的な見た目ではなく、雰囲気として見た目が良い人。なぜか分からないけど同性にも異性にもモテる人物。大したイケメンでもないのに、女が放っておかない人物・・・。そして、そういう人はたいてい人の上に立っている。リーダーの立場である。

 劉邦はその代表例なのだ。

 そうやって彼は仲間から信頼され、街から信頼されていった。知事の下で働く蕭何(しょうか)と曹参(そうしん)も、劉邦には一目置くようになった。

 そして、始皇帝が死に国が乱れ各地に群雄が割拠するようになると、彼の街・沛県でも知事の代わりに実力者を立てようという動きが出始める。その結果、蕭何(しょうか)と曹参(そうしん)の根回しによって劉邦がおしたてられた。

 その後は小説に載っている通りまさに快進撃である。項羽に攻め立てられ命からがら逃げるシーンも何度かあるが、劉邦の成功要因は、人心を掴んだとか、家臣に恵まれたという現象ではなく、彼の右脳力にあると私は確信している。

 「憧れ力」こそが成功の秘訣である。

●英雄偉人のブランディング秘策(メソッド) その二

英雄は憧れる。右脳に焼き付けた将来像に今の自分を鍛えさせる!

さかもと教授の
ポイントレッスン!

「憧れる」という言葉はとかく誤解を招きやすい。「ボンヤリと夢想する」というよりも、「積極的に右脳にイメージを焼き付ける!」というぐらいのアクティブ・ポジティブな概念ぢゃ。これが習慣化すると、自然と体が反応するのぢゃ。イチローが剛速球に反応できるのも、この右脳の力によるのぢゃ。彼は目でボールを追っているのではない。人間の目はそんなに早いものを追えるほどの機能は無いからのぉ。心眼というヤツじゃよ。心眼を作るには、右脳を鍛えるしかない。右脳を鍛えるには、心をストレスから解き放つしかないのぢゃ。だから、プロフェッショナル・一流と言われる人はみな楽天家なのぢゃ。名を残した英雄もみな、憧れ力を持った楽天家だったに違いないのぢゃ!!

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[2:実践編]の概要はこちら

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(3)英雄はなりきる
小村寿太郎の場合[前編]
                   [2:実践編]

Jutaro_Komura   小村寿太郎は1855年に日向(宮崎県)で藩士の子として生まれた。明治維新は14歳のとき。藩の学校(振徳堂)で学んだ後、15歳で長崎を遊学し、次いで東京に出てきて大学南校(東京大学)に入学した。若い頃から秀才の呼び声高く、17歳のとき明治天皇の前で講義をしたこともある。20歳には文部省留学生としてハーバードに留学している。

 その後の彼の立身出世ぶりは年譜の通り。取りあえず、年譜を追ってみよう。

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西暦 年齢 出来事
1875~80 21~26 文部省第一回留学生に選ばれハーバード大で法律学を専攻。
1880 26 刑事局出仕
  ↓
大阪控訴裁判所判事
  ↓
大審院判事
1884 30 権少書記官
1888 34 翻訳局長
1893 39 清国臨時代理公使
1894 40 日清戦争
1895 41 閔妃暗殺事件

政務局長として朝鮮へ

1896 42 小村・ウェーバー協定
1896~98 42~44 外務次官に

西園寺公望・大隈重信・西徳二郎外務大臣の下で次官

1901 47 駐清公使

駐米・駐露公使・駐清公使

1901~05 47~51 第一次桂内閣の外務大臣
1902 48 日英同盟調印

男爵の爵位を授かる
1905 51 ポーツマス条約締結

全権として講和条約を締結

1905 51 第二次日英同盟を締結
1906 52 枢密顧問官・駐英大使
(伯爵の爵位を授かる)
1908~11 54~57 第二次桂内閣の外相に就任
1910 56 日韓併合
(侯爵に爵位を授かる)
1911 57 日米通商航海条約を改正し、関税自主権を回復
1911 57 死去



 こうやって年譜を追っていくと、順風満帆な官僚人生を歩んでいるように思える。時代の趨勢に歩を合わせるように着々と出世している。

 「さすが、神童とも呼ばれるほどの秀才はどこか違う!」

と、羨ましがるのはブランド戦略の初心者だ。人生の初心者でもある。心が幼いとも言えよう。

 人間生まれたときに他人と差があるのは、身体と環境だけである。それを活かす潜在力は等しく与えられている。ただ、それを発揮できるかできないかは、本人の「心と脳」次第である。

 略年的に偉人などの人生を辿っていって、「こんな人になれたらな~」。

 これは「憧れ」とは言わない。ただの羨望である。羨望は、自分の不遇を運命であると捉える「ご都合主義」を助長するだけである。

 羨望は、成功の正しい概念を探り当てる智恵のない潜在的貧者・左脳偏重思考者・比較評論学者の安閑の地である。

 成功は、自分が率先して周りに何かを与えることから始まる。自分以外の人・モノのせいにする精神は成功とはまったく正反対の作用である。

 では、小村寿太郎がなぜ出世できたのか?

 「頭が良かったから?」

 彼ほどの秀才ならあの当時、何人もいた。薩摩や長州などいわゆる倒幕を指揮した藩出身で藩閥を背景に明治政府の中でのし上がっていった秀才たちがウヨウヨいた時代である。藩閥の後ろ盾のない小村寿太郎の学才など、彼らの前では取るに足らない。

 「堂々とした風貌だった?」

 確かに写真では威厳がある。しかし、これは爵位を授かって以降のものだろう。風貌は環境によって変わる。彼が政界の元勲たちに認められていく前はもっと貧相な風貌だったに違いない。駐清公使のおりには欧米の公使たちから「ねずみ公使」とあだ名されるくらいである。ちなみに、小村の身長は156cm(一説では143cm)。池のめだか級である。成功に身長は関係ないようだ。

 答えは、「なりきるパワー」の強さである。「憧れ力」とも言い換えられる。

 憧れる力については、前回「英雄は憧れる。漢の高祖・劉邦の場合」でも紹介したが、小村寿太郎の憧れ力は劉邦のそれとは違い、より具体的・直接的である。

 劉邦は、右脳イメージを長い時間をかけて身体性に転換していった。任侠の親分の大度な雰囲気を纏うことで、中国史上最も有名な王朝の開祖となった。

 小村寿太郎の憧れ力は、そのスケールから言えば、劉邦には遠く及ばない。しかし、そのスピードと実践性の高さにおいて、我々後世の人間に示唆してくれるエッセンスは劉邦よりも多いと思う。

 さて、小村寿太郎の憧れ力とは? 彼は誰になりきったのか?

                               [後編]に続く・・・

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(3)英雄はなりきる
小村寿太郎の場合[後編]
                   [2:実践編]

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Jutaro_Komura

 「歴史に学ぶ」ということは、年譜を辿ることとは質を異にする。

 どのような価値観を持って、どのように行動を起こし、どのような成果を引き出したのか。その関係性を読み解くことが歴史を学ぶ醍醐味である。だから、学校で勉強した歴史科を歴史とは言わない。年表・年譜から知ることができるのは、その人物が遺した成果・結果のみである。

 また、いわゆる歴史オタク、もしくは歴史ファンタジー・オタクの歴史観とも異なる。彼らは、歴史上の登場人物が好きなのである。英雄偉人に関してあれこれ夢想するのが好きなのだ。

 英雄ブランディングは、まず世界一大好きなのは「自分」というスタンスだ。「社会に有用な存在になりたい」と志を抱くのは、あくまで自分である。自分を活かし伸ばす、そのために、「自分を活かし伸ばすことに成功した英雄偉人」から学ぶというスタンスである。

 ①自分 ②英雄偉人 の順番である。いわゆる歴史オタクと異なるのはこの順番である。

 さて、英雄偉人の価値観行動を知るには、広範なアンテナが必要となる。その時代の様相についても関心を向けないといけないし、同時代を生きた人々の習慣や考え方についても耳目を傾ける必要がある。また、作家などが膨大な資料をもとに想像力・創造力を発揮して遺した小説の類も重視する必要がある。

 歴史事実として科学的に証明できる現象を追いかけるのは学者の仕事である。事業家・マーケターなど、「自己をブランドにして価値ある人生を創造したい」と志向する者にとっては、そのエピソードが歴史事実かどうかは問題にはならない。

 例えば、劉邦の小説を書いた司馬遼太郎は劉邦という人物を題材に英雄ブランディングを実践したのである。だから、あたかも劉邦を我が目で見たかのように描けるのである。虚実入り交じったわずかな歴史事実の断片をつなぎ合わせて、自己の精神と脳の中で止揚した結果、物語として顕在化するのである。

 著述家の潜在力(想像力と翻訳力の所産である創造力)が、英雄偉人の物語を顕在化するのである。歴史・伝統とはすべてそのようなメカニズムで語り継がれる。

 つまり、小説家の作品すら、我々にとっては英雄ブランディングの素材として役立つのである。

 だから、英雄ブランディングは、学者や歴史オタクを対象とはしていない。

 あくまで、ブランド戦略や事業設計を志向する人が対象である。自分と自分の人生を素材にして、何らかの価値を創り出し、社会に提供することを選んだ事業家のためのブランディング実践手法である。(ここでいう事業家とは、「法人経営者」という意味ではない。「社会に役立つ価値を創造提供する気概と企画を持った人」というほどの意味である)

 さて、小村寿太郎のブランディング戦略の中で特筆に値するのは、彼の「なりきり力」であると述べた。

 「なりきる」とは、「憧れの人物とシンクロして同化する」ことである。あたかも、その人であるかのように振る舞うことだ。少なくとも、精神的にそのように能動するということである。

 それを如実に表しているエピソードを司馬遼太郎『坂の上の雲』から引用してみよう。

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 小村寿太郎というのは日向(宮崎県)飫肥(おび)藩の出身で、この物語の主人公の一人である秋山好古よりも四歳上である。

 明治三年、藩の貢進生にえらばれて東京の大学南校に入り、法律を学んだ。

 小村が十七、十八のころ、東京の町にはちょうど後年のスターのブロマイドのようにして太政大臣や参議の写真が売られていた。政治家がスターの時代であった。小村はそのうちの参議大隈重信(おおくましげのぶ)のそれを買ってきて、寄宿舎の机の上にかざった。その写真の裏に、

 「謹呈小村寿太郎君 辱友大隈重信」

 と自分でかいた。サイン入りということであろう。もっともそのサインは小村の偽筆であったが。

 学友がおどろき、君は大隈重信と知り合いか、と問うと、小村は傲然と胸を張り、

 「むこうは知らんだろう。わが輩は知っている」

 といった。この時代、この小さな新興国家の書生たちの学問の目標がなんであったかがわかる。単純明快な立身出世主義であり、(正岡)子規もこの年齢のころにはそうであったように大臣参議になって一国の運営をすることであった。

『坂の上の雲』第二巻 P.32~33





 「憧れるなんて簡単な作業だ」と我々は考えている。

 とんでもない!

 憧れることほど難しいことはない!!!

 小村寿太郎のこのエピソードが示すほどになるには、よほどの志と自己愛がなくてはならない。自己愛といっても、「自分しか愛せない」という意味ではなく、「俺は、世の中に役立つ存在たらんとしている、この俺自身が好き!」という感覚である。

 一見、傲慢なようにも見える。自己を恃(たの)み、他を下に見るような姿勢が垣間見えることもある。

 このような人は、才能という概念に関しても独自的な考え方を持つ。気概・志・生き様のすべてを才能という言葉の中に放り込んでしまい、自発的な社会貢献精神を持たない他人を「無能」と批判する。

 しかし、どうだろう?

 「謙虚で柔和だが、社会貢献の志を持たない者」はやはり無能ではないか?

 豊富な知識技術を持っていても、それを使わなければ、能が無いのと同じである。

 能ある鷹は爪を隠すというが、爪を持っているから隠せるのであって、爪を持たない者は隠しようもない。しかし、外からは見えないから、隠しているようにも見える。それが、自己中心的な人の謙虚さの正体であろう。

 その点、小村寿太郎は社会的義務感を大量に持っていたという点で、きわめて有能な偉人である。また、おのれの爪を隠そうともしなかった。征韓論で荒れる当時の日本。欧米列強のアジア侵犯を心配し、おのれの志と行動こそが国の存亡に関わると覚悟していた若者の代表例であろう。下らぬメールの証拠うんぬんで無駄な時間を使っている現代政治など子どもの遊びのようだ。

 話を戻そう。

 同じく「坂の上の雲」から、彼の才能観を彷彿とさせるエピソードを二つ。



   

 明治十三年、小村は (中略) 司法省につとめた。ほどなく外務省に転じ同二十一年、三十四歳で翻訳局長になった。このころ、かれが書生のころブロマイドを買った大隈重信が、黒田内閣の外務大臣をしており、小村の上官であった。あるとき、大隈は自邸で盛大な晩餐会をひらき、元老、大臣、次官、局長といった大官連中を招待した。

 その席に、落語家の円朝が余興をやるためによばれ、酒席の末席に侍(はべ)った。正面には、枢密院議長の伊藤博文が座っている。伊藤が、

 「円朝、盃をやろう」

 と、左手をあげた。が、末席の円朝は身分を考えて恐縮し、ひとのかげにかくれ、頭を下げたまま前へ出ようとしない。そのとき小村が、

 「円朝、出るのだ。なにを遠慮する必要がある」

 と大声でいった。そこまではよかった。

 「この席に廟堂の大官がずらりと並んでいるが、このなかで当代もっとも偉いのは貴公ではないか。元老も大臣もいま死んだところであとに偉い後継者がひかえて(自分のことであろう)いるが、貴公に後継者があるか。ないだろう。だから円朝、堂々と前へ出ろ」

 といった。

『坂の上の雲』第二巻 P.34




   

 明治二十六年、外務省の官制が変わって、翻訳局が廃止された。小村は、当然廃官になるところだった。 (中略)

 当時、外務大臣は陸奥宗光(むつむねみつ)であった。外務省の翻訳官に過ぎなかった小村は、陸奥によって外交舞台にひき出された。

 両人は、もともと縁が薄かった。あるとき、陸奥宗光が司法大臣の芳川顕正(よしかわあきまさ)とともに新橋駅のプラットホームをあるいていると、小村は声高で笑い、

 「あれをみろ、ヘチマ(陸奥)とカボチャ(芳川)があるいてゆく。一はほそく一はまるし。しかしながら両方ともなかみがカラッポということで共通している」

 と言い、居ならぶ同僚たちに眉をひそめさせた。

 ある日、外相官邸で宴会があった。英国へ総領事として赴任する同僚を送別するための宴で、食後、たまたま英国の綿製品のはなしが出、話題が紡績論にまでおよんだ。

 ところがこの席上、小村が精緻そのものの英国綿業論を論じはじめたのである。年度別の原綿の産額、輸出入の消長、さらに各種綿製品の優劣まで論ずると、同僚たちは驚嘆した。小村にすれば5年間のひましごとのあいまに調べたことだが、同僚たちにとっては翻訳官がこれだけのことを知っているとはおもわなかったのである。当時、翻訳局長などは外交官とおもわれていなかった。陸奥もおどろき、

 「君はどうしてそんな小さなことまで知っている」

 ときくと、小村は、

 「小さなことだけではありませんよ。天下国家の大事についてもいささか抱負をもっております」

 と言うなり、この小男の癖で、はじけるような高笑いをあげた。

 陸奥は、異動人事をするにあたってそのことをおぼえていたのであろう。しかし、空席が北京(ペキン)にしかなかった。 (中略)

 「君をワシントンにやりたい。しかしいま空席がない。当座、北京にゆく気はないかね」

 (中略)

 「むしろ、北京のほうこそ望むところです」

 というと、陸奥は小村の遠慮かとおもい、

 「しばらくの辛抱だ。何年かののちにはワシントンに君を置くことを考慮する」

 「ご心配はありがたいですが」

 と、小村はいった。

 「そういう将来においてもあなたが外務大臣をつづけていらっしゃるという保証はございますまい」

 カミソリといわれた陸奥は、どういう場合でも鋭利きわまりない論理を用意していたが、このときばかりは沈黙せざるをえなかった。

『坂の上の雲』第二巻 P.35~37

 とにかく傲慢な人物だ。しかし、痛快である。この人物でなければ日露戦を収めることはできなかったろう。

 性格とは、生来のものではない。習慣が作っていくものだ。

 習慣は価値観と環境によって左右される。

 何の志も持たず、ただ毎日生きているだけで良いという人には、小村のような性格が宿るはずがない。そのような人は、性格だけでなく、ただ大人しく何を考えているか分からないような風貌が身に付く。

 英雄偉人と一口に言っても、それぞれ生きた時代も価値観も環境も違う。当然、性格もバラバラ。

 しかし、おのれが信じる道(事業)を一心に見つめて行動した、という点では共通している。

 小村寿太郎の「社会感覚」「自己愛」「才能観」「傲慢さ」・・・。

 道を歩む者の一つのスタイルとして、大いに学ぶべきところがある。

 人間、心から「なりきる」とその通りになる。

 偽筆サイン入りの大隈重信のブロマイドを持っていた頃から、彼の下で働くまで、約17年。そして、さらに道を進め志を実現するまで、約5年。

 人間、真に憧れ、なりきれば、20年で、本当にそうなれるようである。

 小村寿太郎は、なりきりの天才であった。



 

●英雄偉人のブランディング秘策(メソッド) その三

英雄はなりきる。「憧れる」とは、目指すこと、同化(なりきり)すること、超えること。

  

さかもと教授の
ポイントレッスン!

 憧れ力・なりきり力は、「この私が社会を変えるのだ」という強い社会愛・自己愛の総合性ゆえに発現する神秘の力なのぢゃ!

 技能ではなく、心の作用ぢゃ!

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(2) 英雄は設計する
 坂本竜馬の場合 VOL.1
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Ryouma1_2   自分はこの世に何を遺すことができるのだろう?

 自分の体たらく、弱さを自覚するたびに、坂本竜馬のことを思い出します。


 
坂本龍馬の物語を読むと、その凄さに圧倒されます。

 彼が起草した「船中八策」は現代日本の政治・経済の基礎となりました。

 彼が裏で画策したと言われる「大政奉還」は、日本を植民地化しようと日本の内戦を垂涎して待ち望んでいた欧米列強につけいる隙を与えませんでした。

 彼と中岡慎太郎が薩長の間に入り仲介したお陰で倒幕活動は急速に動き始めました。

 経済面でも彼が遺したものは今でも生き続けています。彼の死後、海援隊の事業は岩崎弥太郎によって三菱の海運・商社事業へと引き継がれていきました。

 一介の志士でありながらこれほどの活動を成し遂げた人は類を見ませんし、他の革命志士と較べてみて特異なのが分かります。

 なぜこのようなことができたのでしょうね?

 坂本龍馬、27歳の頃。

 桜田門外で井伊直弼が暗殺され、それをキッカケにして盟友の武市半平太が土佐勤王党をたちあげました。龍馬もそこに参加しました。

 さしずめ、勉強もせずに大学を留年し続けていたスポーツ青年が、勤王家で有名な先輩が設立したベンチャー企業に入社したわけです。

 その時、28歳。しかし、翌年には勤王党を脱退して、土佐藩を脱藩します。

「勤王ベンチャーって言っても、弁論と暗殺事業じゃ世の中は動かない! オレは船を手に入れて交易を興して、幕府を倒す!」

 と勤王ベンチャー界から足を洗いました。

 武市半平太ら勤王ベンチャー経営者は、議論や弁舌で人を酔わせ、公卿などから資金を提供してもらって組織を運営していました。

 手がけている事業と言えば、講演活動・地方遊説活動。それと、敵対者を廃絶する暗殺事業でした。

 「勤王」という事業カテゴリーはその当時、輝かしい響きを持っていました。

 「IT事業」というカテゴリーが誕生した時の世間の浮かれようとよく似ています。

 しかし、多くのITベンチャーと同様に、実の伴わない虚業だったわけです。

 龍馬は実業の道を独りで歩もうと決意して、飛ぶ鳥を落とす勢いのベンチャー企業を退職します。そのまま残っていれば副社長になれたにも関わらず、です。

 虚業と実業のちがい。それは非常にシンプルです。

 虚業は、価値を生産しません。

 勤王主義は確かに、時代の風穴を開けた一大ムーブメントではありました。

 しかし、土佐勤王党をはじめとする各地の勤王ベンチャーは、「幕府を倒して勤王の世の中になると、我々の生活はこんなにも良くなるぞ。民衆の苦しみはこんなにも無くなるぞ」といった価値の約束を行いませんでした。

 価値提案を行わない事業はすべて虚業です。

 その一方、龍馬は・・・

(つづきは次回)

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(2) 英雄は設計する
 坂本竜馬の場合 VOL.2
                   [2:実践編]

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Ryouma1_2 その一方、龍馬は価値設計から始めました。

 勤王イズムに乗せられた志士たちが、外国人への嫌悪感や、外国の圧力に屈した政府への反感からベンチャー企業を興したのとは大きく異なり、龍馬は以下のように価値設計をしました。

 「お隣の中国政府は欧米列強の言いなりになって、国内の革命家集団を殺すために武器弾薬を外国から購入した。その代金として治外法権や不平等な条約を結ばされて、国を盗られようとしている。日本はそうならないように、お殿様も下級武士も商人も百姓も一枚岩になって国を守るのだ、という意識統一をすべきだ。しかし、それには身分制度が邪魔だ。身分制度を取っ払うべきだ。もし、その邪魔をするなら幕府は倒すべきだ。また、幕府を倒すにあたっては、本来憎むべき敵である外国から文明社会の作り方を教えてもらうべきだ。だから、外国と互角に渡り合える交易を行う必要がある。だから、オレがそれをやる。まずは船を手に入れなくては、人材も探さなくては、英語も学ばなくては、薩長に仲良くなってもらわなければ、勝海舟先生あたりから可愛がられるようにならなくては・・・」

 こうやって事業のアクションプランを決めていったのです。

 龍馬が設立した亀山社中(後の海援隊)には、交易・海運・操船技術の指導・教育啓蒙・出版という事業コンテンツがありました。

 一方、勤王志士たちは「外国人憎し・政府弱し」の薄っぺらい価値観で企業を設立しました。

 だから、倒幕ストーリーが描けないし、倒幕後の国家設計の戦略がない。単純に武力で圧倒するしかないと思っている。

 結局、反対派の重鎮を暗殺して敵方の数を減らすという発想しか思いつかなかったのです。

 勤王ベンチャーには商品やコンテンツがありませんでした。

 商品やコンテンツの役割は、「設計した価値の伝達・具現化」です。

 提案すべき価値を設計していないのですから、商品が無いのは当たり前なのです。

 実のない虚業の末路は古今東西、共通しています。短期的な成功と、その後のとてつもない転落です。

 土佐勤王党は武市半平太と主要幹部の投獄・刑死によって消滅しました。土佐藩だけではありません。様々な藩で勤王党は弾圧されて壊滅しました。まるで、10数年前の土地バブル、数年前のITバブルと同じです。勤王バブルがはじけたのです。

 しかし、その後にはホンモノが残ります。

 龍馬は、昔の仲間たちが虚業で得たきらびやかな成功の陰で、コツコツと価値設計を行いました。

 そしてわずか5年足らずで、その価値を伝達するための商品づくりを行い、人材・資金
を確保して事業を興しました。

 彼自身は非業の死を遂げましたが、彼が生み出した価値はその後の日本を変えました。

 現金を掴むためだけなら虚業で充分です。(誰にも尊敬されない寂しい老後を送ることになりますが・・・)

 しかし、現金をつかみ社会革新を成し遂げて後世に感謝されるような事業を立ち上げたいのなら、何はともあれ、まずは価値設計が必要です。

 英雄とは、「本質的で実質的な価値を設計できる人」を指すのではないでしょうか?

 竜馬の人生はそのことを教えてくれます。

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(2) 英雄は設計する
 坂本竜馬の場合 VOL.3
                   [2:実践編]

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Ryouma1_2

 さて、前2回で取り上げた竜馬の事業設計について、簡単なワークシートを作ってみました。

21ml

ワークシートの使い方。

① どんなキャリアを重ねてきたのか
② どんなスキルが身に付いているのか
③ 自他ともに認める実績があるのか
④ どんな性格だと人から評価されているのか
⑤ どんな役割を任されると全力を出せるのか
⑥ どんな人と接するのが得意なのか

 これらを振り返って自己分析してみよう!
 これらを総合するキーワードを考え出して、中央の枠内に記しておこう!

 ちなみに、竜馬はこう価値設計したのではないでしょうか?

[価値設計のキーワード]

● 攘夷論(短期的な国防論)は百害あって一利なし
● 剣の時代は終わった。これからは西洋の武器が台頭してくる
● 国際法と外国語を勉強して、外国と互角に渡り合いたい
● 開国すれば、結局、いずれ攘夷できるようになる。長期的な国防論
● アメリカやオランダの政体(立憲民主主義)にならえ!
● 四民平等。身分制度を撤廃して差別をなくす
● 学問や就業の機会を均等にする
● 思想言論の自由を確保する
● 職業選択の自由を確保する
● 優秀な人材が政治をすべき
● 諸外国の脅威に抵抗できる国づくり
● 海外との平等な貿易によって財源を確保する
● 入れ札(投票)制度による国家元首選び
● 新国家の青写真を描く
● 国防体制を整備する
● 商社と軍隊と教育機関の性質を兼ね備えた組織が必要
● 日本の国防はつまり海防。海軍創設と海路拡張が富国強兵の基本
● 優秀な政治家・商業人を育てたい

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(2) 英雄は具象化する
 坂本竜馬の場合 VOL.1
                   [2:実践編]

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 坂本龍馬に関して特に驚かされるのが彼の活動期間の短さ。

 彼は33歳で命を落としました(1867年)。

 第一線で活躍していた当時の志士はみな短命ですが、たいていの志士はみな10代で国事に目覚めています。亡くなる時にはすでにその道ではスペシャリストとして名を馳せています。

 しかし、坂本龍馬は10代のころは剣道一本。仲間たちが政治論に熱くなっている時、彼はまだ自分の道を見つけられないでいました。龍馬26歳の頃(1860年)、他藩の論客が坂本龍馬の印象をこう語っています。

「龍馬は誠実でなかなかの人物。剣豪でもある。しかし、天下国家の事情に疎い。なんにも知らない・・・」

 26歳といえば、当時の感覚で言えば、もう40歳前後のベテランの歳だったでしょう。その歳になってまだ「剣豪」としか評価されていなかったわけです。

 しかし、前項でも述べたように、この翌年には勤王ベンチャーに参画して、翌々年にはドロップアウト。

 そこからわずか5年で、①株式会社の設立 ②倒幕勢力の組織化・糾合 ③有識者・権力者とのアライアンス ④人材の育成 ⑤新国家戦略の策定 ⑥未開地の調査 ⑦近代的軍隊成立のインフラ整備 といった事業を次々に成し遂げています。

 わずか5年で!? どうやって!?

 私のような愚鈍な人間にはまったく想像もつきませんが、一つだけ分かることがあります。

 彼は、「人間が具体的な物を目にしたり手に取ったときの感動・感激」の効果というものを自然と知っていたのではないでしょうか?

 例えば、幕臣で海軍奉行並の勝海舟との師弟関係です。

 昨年まで勤王ベンチャーで働いていたかと思えば、突如辞めて故郷を離れ、東京の地で、敵方の有力者に弟子入りしている。

 もちろん、「節操がない!」と批判されたようですが、むしろ、そういうことをたった一人で飄々とやれてしまう人間力にみな呆気にとられてしまったようです。怒るよりも感動するのです。

 政府の批判をチマチマやっているよりも、一度、政治の仕組みを知るために政治家の秘書になってみようと行動できる、その勇気や決断力や可愛げといったものに、人は感動する性質を持っているということでしょう。

 武市半平太の勤王ベンチャー企業が構成員の数にものを言わせて、なかば恫喝的に、時には暗殺という手段で自説を押し通そうとするのに較べて、龍馬はたった一人で価値設計を行い、それを有力者に認めてもらっている。下級武士では一生お目通りのかなわない大身の幕臣(お殿様)に、自分たちと同じ身分の龍馬が私淑しているという事実を見聞きしたときの彼らの衝撃は大きかったでしょう。

 こういう「具体的・具象的なものへの感動・感激」がブランド構築の切り札なのです。

 龍馬は、頭の中で組み上げた概念を、誰もが手にとって評価できるようにカタチにする具象化能力に優れていました。コンセプトをコンテンツへと変質させる能力のことです。価値設計(コンセプト・メイキング)をしているから、商品設計(コンテンツ・メイキング)ができるのです。

 具象化は、人の協力を集める、人の気を集める秘訣でもあります。

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